「景色が大きく傾いた」106歳の現役理容師、強烈な印象残る100年前の大震災 #災害に備える(共同通信) – Yahoo!ニュース
栃木県那珂川町の理容師、箱石シツイさんは、106歳の今も現役で働いている。毎朝、新聞を読み、我流の「長生き体操」を欠かさず、エプロンをかけて店にお客さんを迎える。
90歳超の常連客も、シツイさんの手にかかれば「赤ちゃんの時から知っている」。
大正、昭和、平成、令和と四つの元号を生き抜き、1世紀を超える人生で苦楽を味わった。第2次世界大戦では夫と店を亡くし、子どもたちと一緒に死のうとしたこともある。
「ずっと荒波の中にいるような人生だった」。シツイさんが語る数々の出来事は、日本の現代史を映し出す。記憶に残る「原風景」は、100年前に起きた関東大震災。当時6歳だった少女に、強烈な印象を残した。
目の前で地面が割れた
1923年9月1日の昼前。シツイさんは自宅の離れで1人、お手玉をして遊んでいたという。
母親たちは慌ただしく食事の準備をしていた。その時、前触れもなく「突然グラっと、景色が大きく傾いた」。 地震を経験したのは「この時が初めて」。
地面がどうして揺れているのか理解できず、「思わず地面を抑え込んで、何とか揺れを止めようとした」。 しかし、当然ながら揺れは収まらない。
「ずっと長い間、揺れ続けた」。
しばらくすると、庭で大人たちが騒いでいる声が聞こえ、思わず走り出た。 庭には主婦たちが集まっていた。箱石さん宅の庭には当時、湧き水があり、近所の人の生活用水として解放していた。
集まっていた女性たちは昼食の準備で水をくんでいる最中だった。 シツイさんが外に出ると地面にヒビが入っていた。地割れは目の前で次第に広がっていく。
足がすくみ、その場で動けなくなってしまった。
「落ちたら死んじゃうよ。早くこっちにおいで」。
1人の女性にこう言われて我に返り、あわてて駆け寄った。 揺れが落ち着いた後、家の外に出てみると大きな柏の木が何本も倒れていた。
関東大震災の震源は神奈川県北西部。東京から直線距離で100キロ以上離れた那珂川町でも、相当の揺れだったとみられる。
「大勢の人が焼け死んだらしい」
近くの丘の上から南の方角を見たという人が、こんなことを言っていた記憶がある。
「東京の辺りが赤くなっている」。
東京では地震後に大火災が起き、大勢の人が巻き込まれて亡くなった。
その惨状が伝わったのは5日ほど後。周囲の大人たちの話題が震災一色になった。
口々に「東京が大火事になったそうだ」「大勢の人たちが焼け死んだらしい」「かわいそうに」などと話している。
小さかった自分は会話に入れてもらえず、「あっちに行ってなさい」と言われた。
「あまりに残酷な話が多いので、子どもには聞かせたくなかったのだろう」 それでも、大人たちの表情や口ぶり、いつもとは違う両親の雰囲気から、恐ろしいことが起きていることは分かった。
その後も話題は震災ばかりだった。 「集落にはまだ電気もなく、ラジオもなかった。新聞や役所から伝え聞き、被害の全体状況を知るまでに1~2年かかった」
空襲警報が鳴る中、お客さんの髪を切った
シツイさんは14歳で上京し、理容店で修行した。
16歳、満州事変があった年に理容師に。
22歳の時、同じ仕事をしていた夫と結婚。それを機に新宿で2人の店を開いた。
夫婦とも腕は良く、お客さんが連日訪れて繁盛し、遅くまで働いた。
1940年に長女が、43年には長男が生まれた。戦争が始まったものの、生活は順調だった。
東京は1942年以降、米軍機による空襲を何度も受けた。
あまりにも頻繁だったため、人々の感覚は次第に麻痺。
空襲警報が鳴ってもお客さんはあまり逃げなくなった。 店は相変わらず忙しく、警報が鳴ると、片手で座布団を子どもの頭にかぶせながら、お客さんの髪を切ったこともある。
「爆弾があちこちに落ちても、どこか他人ごとのように思えていた」。
米軍機が落としていく焼夷弾の強烈な光を見て、不謹慎とは知りつつ「七夕みたいにきれい」と思った。 しかし、家族4人の幸せな日々は暗転する。夫に召集令状が届いた。
招集、むせび泣く夫
シツイさんが今も鮮明に覚えているのは1944年7月、夫が入営する日のことだ。
見送りのため大勢の人が店の前に集まったのに、夫は家の2階から降りてこない。
「どうしたんだろう」と見に行くと、夫は2人の子どもをぎゅっと抱きしめ、鼻水を垂らしながらむせび泣いている。声をかけることができなかった。
どれくらい時間がたったか覚えていないが、ようやく降りてきた時には涙は拭いていた。
見送りの風景も、当時は様変わりしていた。
戦争が始まった当初はバンザイをしたり、軍歌を歌ったりしたが、夫の時は常連客ら約50人が目白駅まで静かに歩いて見送った。
「当時はもう、ほとんどの人が戦争に負けると、何となく分かっていたんだろうと思う」
家族は見送りについて行かない予定だったが、幼い長女が、歩き始めた父親のところへ走って行く。
夫は手を合わせて「頼むから、家に帰ってね、送られるとつらいからね」とさとす。
すると、パタパタと小さな足音を立てながら走って戻って来たが、またすぐに夫の元に走って行ってしまう。それを何度も繰り返した。
「母ちゃんと死んでくれる?」
夫婦で守ってきた理髪店も、結局は空襲で焼け、栃木県那珂川町の実家に戻った。
夫は終戦後も帰って来なかったが、「必ず戻ってくれる」と信じていた。
知り合いの中には、数年後になって夫が戻った人もいたからだ。
「戦死」の連絡が国から届いたのは8年後の1953年。
ショックは大きく、自暴自棄になって娘に尋ねた。
「母ちゃんと死んでくれる?」 娘は「お母ちゃんと一緒ならいいよ」と言ってくれた。
ネズミ用の強力な毒を用意し、学校にいる息子の帰りを待った。 ところが、帰ってきた息子は「絶対にいやだ」と泣き出した。家を飛び出した息子から話を聞いた親戚が駆け付け、毒を取り上げられた。
思い出したのは、夫の最後の言葉
その後もしばらくは何をする気力も出ず、ふさぎ込んだ。
部屋の明かりもつけず、夫と出かけたことや会話を一つ一つ思い出す。
最後の会話は招集後、配属された部隊がある千葉県に1人で面会に行った時のことだ。
シツイさんは思わずはっとなった。夫はその時「子どもたちをよろしく頼む」と言っていた 。
「このままじゃ、子どもたちのためにも良くない」 実家の近所に理髪店を開いた。
すると、「東京で培った最先端の技術」で髪を切ってもらおうと、行列ができた。やがて女手一つで育てた子ども2人は大人になり、やがて孫やひ孫も生まれた。それでも毎日のように店に立った。
東日本大震災、思い出した恐怖
2011年3月11日、シツイさんは94歳になっていた。
居間でくつろいでいると、強烈な揺れが襲った。東日本大震災だ。
栃木県でも震度6弱の揺れを記録。すぐに幼い頃の記憶がよみがえった。
「関東大震災を思い出した」。
あの時のような大きな被害が出ないで欲しいと祈ったが、深刻な状況がテレビや新聞で明らかになっていく。 当時は一人暮らし。
近所に住むめいが訪ねてきてくれて、二人で無事を確かめあった。
あまりの怖さに、しばらくはお互いの家を泊まり合った。 二度の大震災を経験したシツイさんは、こう感じたという。 「災害は本当に忘れたころにやってくる 」
テレビで話題、全国からお客さんが…
2021年の東京オリンピックでは、最高齢の聖火ランナーを務めた。
丈夫な体が自慢だったが、今年7月に新型コロナで陽性に。
退院すると今度は熱中症になって病院に運ばれた。
8月、回復したシツイさんはいつものように朝の体操をし、背筋や足のツボを丹念にほぐした。
長年使っているハサミはきれいに研がれ、しっくりと手になじむ。
「100歳超の理容師」とテレビなどで話題になった後、お客さんは全国から来るようになった。「体が動く限りは髪を切り続けたい。お客さんが喜んでくれると私も嬉しい」と笑う。
「今は私が励ます時」
豊富な人生経験を持つシツイさんの元には悩み相談に来る人も少なくない。
そのたびに「大丈夫よ」「少しずつでいいから自分のやりたいことをしていればいいんだよ」と背中を押す。
「人生は荒波だったり、大きな山だったり川だったりしたけれど、そのたびに色んな人に助けられて何とか生きてきた。つらいこともたくさんあったけれど、生きていたから楽しいこともあった。だから今は、私が励ましてあげなきゃね」