「少子化は解決できる問題ではない」「一度国を“ご破算”にすればいい」 養老孟司が語る少子化問題(デイリー新潮) – Yahoo!ニュース
今年6月、政府が閣議決定した財政運営の指針「骨太の方針」の目玉は「異次元の少子化対策」だった。ところが、解剖学者の養老孟司氏はそもそも「少子化はシミュレーション不可能な課題」と語る。その意味とは――。
私が去年読んで、面白かった『土を育てる』(NHK出版)という本があります。アメリカの農家の人が書いた本なのですが、その農家は不耕起、つまり「耕さない」土地に「化学肥料を使わない」「除草剤を使わない」などの農法を用いて、周辺の近代的農家と同じくらいの収穫をあげている。
中でもジャガイモ畑が印象的です。不耕起の畑を掘らず、地面の上に種イモをすっと置いていく。そこに干し草を薄く被せ、収穫期になって干し草をどけるとジャガイモが育っているんです。 放っておいたら育つ。子どもだって似たようなものですよ。
異次元の少子化対策
〈そう独特の表現で子育てについて語るのは、解剖学者の養老孟司氏(85)である。
6月16日、政府は経済財政運営の指針となる「骨太の方針」を閣議決定した。目玉は「異次元の少子化対策」。今後は児童手当の拡充など、2024年度から年間3.5兆円もの巨額の予算を投入し、少子化をストップさせたいとしている。22年には統計を開始してから初めて、出生数が80万人を割り込み、過去最低を記録。
しかし、対策の財源についても不透明なままで、国民の不信感は募るばかりだ。 養老氏は住まいのある神奈川県鎌倉市の保育園の理事長を30年以上務めてきた。子育てや教育に関する著作もある氏に少子化問題について問うと、“意外”な答えが――。〉
シミュレーション不可能
子どもが減っているという事実について、その原因を言語化できるとの認識がそもそも間違っています。昆虫は1990年から2022年にかけて、全世界で8割から9割がいなくなったとされています。しかし、その原因についてはっきりしたことはわかっていません。子どもが減ってしまった理由がよくわからないのと同じです。
現代社会では人間がシミュレーションすることができ、因果関係がはっきりしている課題はすべて解決方法を見いだしたと言っていい。例えば、貧困の問題です。私が子どもの頃に比べれば、日本は経済的に豊かになりました。逆にいまはシミュレーション不可能な課題として少子化問題が残されているといえます。それを「解決できる」と考えていることが間違いですし、このくらいの金をかければこのくらい子どもが増えるだろう、と必死にシミュレーションして、巨額の予算をつぎ込む政府や政治家がむしろかわいそうに思えてきます。
人口が減れば、解決できる問題もあります。環境問題がその一例でしょう。環境問題の本質は人が多すぎること。にもかかわらず、なぜ国は人が減ることを問題視しているのか。それは政府や官僚が子どもの減少をお金の問題として捉えているからです。若い人が減ると、働ける人が少なくなり、GDPが減少してしまう、としている。
その意味で、私は少子化問題については放っておけばいいと思うんです。ジャガイモと同じで転がしておけば、子どもは育ちます。人口が増えたって減ったっていいじゃないですか。なぜ、政府はそういう流れに身を任せられないのでしょう。畑を耕そうが、耕すまいが、ジャガイモは育つ。しかし「放っておいたら育つ」存在を社会は許容できないんです。
余分な肥料は…
人間というのは自分の「成果」を誇らずにはいられない生き物です。政治家は地元の選挙区に橋を造れば、その「業績」を有権者に誇るでしょう。ただ、別にその橋は政治家が造ったわけではない。誰かが材料を運んで建造してくれたわけです。
医者もそうです。彼らは病院に患者が来ると、何か治療をしないといけないと思い込んでいます。仮に医者が患者に対し「放っておいたら治りますよ」と帰してしまったら、病院に一銭も入りませんし、患者も怒ってしまうかもしれません。やはり、医者は“余計な”治療をしたがるものです。
稲を育てることと子どもを育てることは基本的には同じ原理です。栄養が不足しているのであれば、肥料を与えた方がいいに決まっている。しかし、栄養が十分なところで余分に肥料を与えれば枯れてしまうだけですよね。 教育もそうです。好きにさせると子どもはロクな大人にならないと信じられている。日本で教育というと、毎日学校に行って、おとなしく座らせて勉強させる、ということになっている。動き回るとADHD(注意欠如・多動症)だと言われ、アメリカだと薬物療法を用いてまでじっとさせようとする。でも、子どもってじっとしていられないのが当たり前ではないですか。
「安全」を優先してしまう日本人
昔、松下幸之助さんの財団が日本人留学生向けに奨学金制度を設立したというニュースを見た時、私は「何でそんなことするんだ」と思ってしまったんです。農家出身の松下さんは金がなくて、苦学して、苦労して、世界的企業の礎を築いてきた。日本で彼なりの教育をできないんですかね。なぜ若い人に「俺と同じようにやれ」と言えないのか、と憤りを感じました。この例に限らず、日本では、自分が育ったように子どもを育てないというのが、進歩的な考えだとされてきたのです。
子育てって、文化によって感覚がだいぶ違います。私が、1970年代にオーストラリアに留学していた際、ドイツ人の赤ちゃんを預かったことがありました。お母さんはお医者さんだったのですが、土足で入る部屋をその赤ちゃんがハイハイしていて、落ちているものをすぐ口に入れてしまう。僕が「放っておくと危ないんじゃないの」と言うと、彼女は「大丈夫、食べられないものは吐き出すから」と言う。お母さんがそれほど心配していないんですね。
日本の場合、子どもを遊ばせるときに何を最初に考えるか、と親や学生に聞くと「安全」と答えます。私はその答えを聞いて仰天しました。保育園でも園児がけがしたりすると、保育園の責任になってしまう。世界は危険に満ちていて、そこを幼い子どもが歩めば、けがをすることはある。その危険を親の方がわざわざ隠そうとしているのです。
「いない」ことと同じ
確かに子どもは知力も体力もない、完全なる弱者です。ただ、子どもは基本的に「自然」ですから、大人のシミュレーションは効かないんです。一方でいまの日本はシミュレーションに基づいて、都市化されています。私の言葉で言うと「脳化」です。そうすると、都内の空き地に草や木が生え、昆虫や動物がいても人はそれを「自然」とは認識しない。ただの空き地だと思うだけです。
その世界では社会的、経済的弱者である子どもの存在は認められません。価値がないと見られ、「いない」ことと同じになってしまっているのです。空き地の木と一緒です。子どもを「こういうふうに育てれば、こういう大人になるはず」という投資的な対象として見てしまっている、と言ってもいいでしょう。 そうした考えや世界観は変えることができるのでしょうか。
“ご破算”の状態から始めるのが得意な国
私がいま関心を持っている大地震がそのヒントになります。 元京大総長で地震学者の尾池和夫さんは2038年ごろに南海トラフ巨大地震が起こると明言しています。歴史を振り返ると、幾度もの天災が日本のシステムを変更してきました。鴨長明が「方丈記」に記した文治地震(1185年)はマグニチュード7.4とされますが、源平争乱の背景には、天災による日本の危機があり、平安時代を終わらせる一つの要素となりました。
そして時代は進み、江戸時代の終わりを告げたのが1853年の黒船来航と翌年からの安政の大地震。明治維新があって、富国強兵を進める日本を破壊したのが、関東大震災(1923年)でした。1927年には陸軍大将だった田中義一内閣が成立し、その後は次第に軍人内閣の色が濃くなり、太平洋戦争に突入していきます。戦後も焼野原の状態から日本は新たな国の形を構築してきました。
どうやら、この国は“ご破算”の状態から始めていくことが得意なようです。 現代社会に残されている課題はいまのシステムではどうしようもないことばかりです。日本の文化とシステムは行き着くところまで来てしまった。必ず来るのですから、いっそ地震のせいにして、一度ご破算にして、組み立て直すしかない。
その時に初めて、子どもが投資的対象なのではなく、ジャガイモのように自然に育っていくものだ、という感覚が立ち上がってくるのではないでしょうか。 少子化と子どもの教育は政治の問題ではなく「自然」の問題なのです。
養老孟司(ようろうたけし) 東京大学名誉教授、解剖学者。1937(昭和12)年、神奈川県鎌倉市生まれ。1989(平成元)年『からだの見方』でサントリー学芸賞受賞。著書に『バカの壁』『手入れという思想』『ヒトの壁』『遺言。』など多数。 「週刊新潮」2023年7月13日号 掲載