被災地の「怪談」に宿る温かさと喪失感 東北ならでは死者との向き合い方 #知り続ける(Yahoo!ニュース オリジナル 特集)
東日本大震災の後、東北の津波被災地では「怪談」があちこちで聞かれるようになった。見知った人が立っていた、亡くなった父が呼んでいた……。
自然災害が多い日本だが、なぜ3.11で被災した東北では「怪談」が多いのか。実際に不思議な体験をした人たち、各地での「怪談」を聞き取ってきた怪談作家や東北民俗学に詳しい出版社代表らに話を聞いた。(文・写真:ノンフィクションライター・山川徹/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
“異変”の翌日、遺体や遺骨が寺へ
尾浦(おうら)漁港から300メートルほど坂を上った高台。護天山保福寺は、宮城県女川町の曹洞宗の寺院である。
震災のあった2011年3月11日まで尾浦集落には約180人が暮らし、銀鮭の養殖が盛んに行われた。だが、あの日の津波に浜は丸ごとのみ込まれ、19人が犠牲になった。
住民たちは高台移転などで浜を離れた。家々があったかつての集落で生活するのは被害をまぬがれた保福寺の住職である八巻英成さん(41)の家族だけだ。
その八巻さんが不思議な体験をするようになったのは、震災から70日経った5月19日以降のことである。それまで寺は避難所になっていたと八巻さんは言う。 「もっとも多かった震災直後は250人以上いました。避難所が解散したのが震災から70日後。おかしなことが起き始めたのは、それからです」
初めはささいな違和感にすぎなかった。今日はカラスがやけにうるさく鳴くな。風もないのに玄関の戸がガタガタうるさいな……。
やがて八巻さんは気づく。異変が起きた翌日、必ずといっていいほど行方不明だった檀家の遺体が発見され、遺骨が保福寺に届けられる。
「私にはいわゆる“霊感”はまったくなかったのですが、異変を感じると翌日に遺骨が持ち込まれる現象が続きました。正確な回数は覚えていませんが、多くて週に1回とか2回くらいでしょうか」
いつしか、それが当たり前になり、境内を掃除したり、お経を上げたりしていると視線を感じるようになった。誰かがいる気配は確かにある。
だが、振り返っても誰もいない。 「怖くはなかった。3.11では約100人の檀家さんが犠牲になりました。いまは、亡くなった方たちが供養してほしくてお寺に来ていたのかなと受け止めています」 死者の存在を身近に感じる――。
それは、八巻さんだけではなかった。八巻さんは、不思議な体験を数え切れないほど聞かされた。
70代の檀家の女性は夫と家を津波で流され、学校に設けられた避難所を仮の住まいとした。
しばらくすると、ふとした瞬間に、耳になじんだ声が聞こえるようになる。「そばにいるよ」。
夫の声は決まってそうつぶやいた。避難所の校庭に積まれた瓦礫の中から夫の亡き骸が見つかったのは2011年秋のこと。
女性は八巻さんに「もっと早く見つけてあげたかった」と悲しみと大切な人が見つかった安堵が入り交じる複雑な思いを漏らした。
また震災から4年が過ぎたある日、70代の男性が保福寺を訪ねてきた。
行方不明の母親が夢枕に立ったという。母は何も口にせず、にっこりと満面の笑みを浮かべていた。
翌日、男性の元に、母の遺体が発見されたと連絡が入った。八巻さんは語る。 「タクシーが幽霊を乗せた、海から列をなした人が浜のほうに歩いてきた……。
震災直後から、そんな話は本当によく耳にしました」
怪談の主役は“身内”
被災地では震災直後から怪談や不思議な話が語られてきた。
宮城県気仙沼市在住の怪談作家・小田イ輔さんは、震災の前から地元に根づいた怪談を蒐集(しゅうしゅう)してきた。
彼は、被災地の怪談の特徴を「幽霊の顔が見えること」と説明する。
「Xという集落におじいさんの霊が出るというウワサが広まったとします。しかし、地元の人は『Xのおじいさんなら、津波で流されたAさんだ。Aさんは祟るような人じゃない。きっと寂しいんだろう』と生前を偲(しの)ぶような受け止め方をする。
気仙沼は人口6万の港町です。気仙沼に暮らす人の家族や友人が犠牲になった。気仙沼の人にとって、犠牲者は“身内”なんです」
冒頭の八巻さんが感じた視線や気配は、犠牲になった檀家の誰かだろうと推測された。
遺族に声をかけ、夢枕に立ったのは、亡くなった夫や母だった。それらもまた“身内”だった。
そのせいか、怪談といえば呪いや祟りなどおどろおどろしい印象があるが、被災地ではその手の話はあまり耳にしない。 震災から数カ月後、小田さん自身も“身内”の話を耳にする。
工事現場近くで子どもの幽霊がためらいがちに追ってきた──。
建設作業員から小田さんはそんな話を聞き、言葉を失った。
「目撃した場所や背格好から、私も知っている子ではないかと感じたんです。その子の死を悼んで毎日、遺影に手を合わせて話しかける両親の姿を知っていましたから」 怪談を収録した書籍を多数書いてきた小田さんだが、70本以上集めた被災地の怪談については、ほとんど書けなかった。
書籍などで発表できたのはわずか7本。小田さんは「身内を書くことにためらいがあった」と明かす。
震災直後、小田さんは宮城県岩沼市で被災した知人の男性からこんな話を聞かされた。
震災から数日後、知人は行方不明だった娘の遺体と対面した。
沿岸部では火葬場も被災し、土葬せざるをえない。
男性は娘の遺体を自動車に乗せると隣の山形を目指した。山形なら娘を荼毘(だび)に付せるのでは、と考えたのである。
男性は被災した上、連日の捜索で疲れ果てながら、残雪の峠道を急いだ。
ふと気づくと声がする。後部座席に横たわる娘の声だった。
「お父さん、気をつけて……」。娘の声に相づちを打ちながら、無事に山形に到着した。
男性は「娘が声をかけてくれなければ、事故を起こしていたかもしれない」と語った。
小田さんは複雑な心境を吐露する。
「私は、父と娘の思いやりを感じて胸が詰まりました。ただ、そう受け止める人ばかりではないでしょう。現実的に考えれば、ご遺体が話すわけがない。もしも『ただの妄想だ』という声が男性に届いたら、父と娘の大切な思い出が汚されてしまう。そう考えると書けなかったんです」
大切な人に会いたいという思い
なぜ、3.11の被災地で怪談が語られたのか。
山形市に暮らし、東北をフィールドに活動する怪談作家の黒木あるじさんがヒントを示す。
「3.11では広い地域が瓦礫の荒野と化した。行方不明者も多かった。弔うべき遺体も、墓地も、寺も、ふるさとそのものが流された。残された人たちはとてつもない喪失感を味わった。どんな形だとしても、もう一度大切な人に会いたいと思う背景には、喪失感がある。そんな心情が死者と邂逅(かいこう)する物語を生み出したのではないか」
黒木さんが被災地の不思議な話に初めて触れたのは、震災から10日後の2011年3月21日。
岩手県宮古市で被災した遠縁の高齢女性が電話をかけてきて、「私、お父さんに助けられたのよ」と切り出した。 震災の日、買い物の準備をしていた彼女は「おーい」と呼ぶ声を聞く。
声がした竹林を見ると、ずいぶん前に亡くなった夫と背格好が似た男性が立っていた。
その姿を追う途中、大きな揺れに襲われる。腰を抜かし、竹にしがみついていると自宅の1階部分を津波がさらっていった。
この話を聞いた黒木さんは「これから、先に逝った人と残された人が再会する物語がたくさん語られるはずだ」と直感する。
以来、被災地に通い続け、200話以上の怪談を記録した。
いま黒木さんは「震災の怪談に耳を傾けることは、被災地の変遷や、被災者の心の変容をたどる行為だったのかもしれない」と考えている。
では、どのような変遷、変容があったのか。
一つの変化は震災から2、3年して顔と名前がないオバケの話が増えたことだと黒木さんは言う。
「外から来た復興業者やボランティアが語り始めたからです。彼らはたくさんの人が亡くなったという情報は知っている。けれど、町の営みの実感はない。遭遇した不思議な現象は、顔と名前がないオバケの仕業だから怖い、という話になる。当初は亡くなった家族の声が聞こえた、姿が見えたと語る人に対して『無念だったんだべね』と周囲の人たちが喪失感に共感していた。誰もが胸に抱え込んだ思いを口にして共感してもらうことで、心が楽になる。怪談がそうした役割を果たしたケースもあったはず。でも、時間が過ぎると『トラウマによる幻聴や幻覚だから医者に行ったほうがいい』という話になっていった」
「口寄せ」という東北の伝統
黒木さんの実感では、震災後5年を境に怪談は減っていったという。
新しい住居や店舗が立ち並び、町から震災の影が薄れはじめた時期だった。
2018年、黒木さんはこうした変化を象徴するエピソードを聞いた。
岩手県大槌町に暮らす高齢男性の話だ。 男性は、大槌町にある先祖の墓を内陸部の一関市へ移そうと考えていた。
そんなとき自宅の廊下を歩く足音がした。
目をやると、津波で亡くなった母親の白い足袋が見えた。その後、ガラッと玄関を開ける音がした。男性はこう語った。
「ばあちゃんも、もうここさいらんね(ここにいられない)と思ったんだべな。一関に無事に着いてくれればいいけど」
海水浴場として親しまれる気仙沼市の大谷海岸。震災後、不思議な体験をした人がいたという
ふるさとを後にせざるをえない人たちの心情が投影されているように思えると黒木さんは語る。
「東北には、飢饉や災害、疫病でたくさんの人が亡くなった歴史がある。死者は身近な存在だったし、いまも死者と交流する回路が残っています。青森の恐山のイタコが行う死者の魂を呼び寄せる『口寄せ』はその典型です。東京から西の地域では、死者の霊が出たら祓(はら)って鎮める。東北では、近年まで集落ごとにイタコのような『口寄せ』がいて、死者と折り合いをつけてきた。不思議な体験を受け止める素地には、そんな伝統があるのではないでしょうか」
東北の被災地で、怪談はいまになって語られ始めたわけではない。100年以上前の被災地にも幽霊が現れていた。
「遠野物語」でも語られた震災怪談
3.11を機に語られた震災怪談のルーツは、民話の原点と評される民俗学者・柳田國男の『遠野物語』に収録されている。
第99話は、岩手県船越村田ノ浜(現・山田町)に暮らす福二が、1896(明治29)年の明治三陸津波で命を落とした妻と再会する話である。
地名や人名はすべて実在する。
「『遠野物語』に代表される東北の精神性を培ったのが、自然との距離の近さ。地震や津波という自然現象を前に、東北が持つ自然観や死生観が呼び起こされたのではないか」 そう指摘するのが、仙台の出版社「荒蝦夷(あらえみし)」の代表である土方正志さんだ。
「荒蝦夷」は東北の怪談を盛り上げようと『遠野物語』刊行100周年にあたる2010年に〈みちのく怪談コンテスト〉を開催した。
翌年に被災したが、2013年に『みちのく怪談コンテスト傑作選2011』を出版する。
同書には震災をテーマにした作品が数多く採録された。
震災から2年ほどが過ぎた頃、土方さんは女川町でこんな話を聞く。
仮設住宅に知り合いのおばあさんが訪ねてくる。茶飲み話をして、おばあさんが立ち去ると座布団が濡れている。
そこではじめて茶飲み仲間たちは「そういえば、あのばあちゃん死んだんだっけな」と気づいて笑う。
「あのばあちゃん、物忘れがひどくなってたから、自分が死んだの忘れてんのかもな。そのうち気づくべ」 土方さんは「怪談は誰かの体験談に尾ひれがついて広まっていく。いつ誰が語ったか分からない話がほとんど」としつつも、被災地で語られる怪談にはひとつの役割があると続ける。
「倒壊家屋が何軒だった、何人が犠牲になったという被害の客観データはこれからも残るが、人の思いや感情は記録しない限り、消えてしまう。怪談は被災した人の気持ちを残す、ひとつの器なのではないか」
尾ひれがつくという意味で、土方さんは「面白い怪談」を紹介した。
ある被災地で横断歩道に幽霊が立った。幽霊は、日を追うごとに2人、3人と増えていく。話はここで終わらない。
なんと幽霊が事故に遭わないように、他県から応援にきた警察官が交通整理を始めたというのである。
語り手は「地元の警察官じゃないから幽霊って気づかねえんじゃないか」とオチをつけて笑う。
それに、と土方さんは言葉を継いだ。
「被災地で語られる怪談は“どんど晴れ”なんですよ」 どんど晴れ、とは岩手県の方言で民話や昔話のシメの決まり文句だ。
「これでおしまい」というような意味合いで用いられる。
「亡き人を語るのは怪談というより世間話なのでしょう。話し手は怖がらせようとしていない。みんなで笑顔で亡くなった人の思い出話をしている感覚に近い」
今年の3.11は故人を偲ぶ十三回忌
怪談を蒐集する小田さんや黒木さんは、被災者の心情に寄り添っていた。だからこそ、怖さよりも、温かさや切なさが印象に残る。
だが、最近は事情が変わってきた。それは、震災から10年以上が過ぎて、3.11が遠くなってしまったからかもしれないと土方さんは言う。
「ストレートに怖さを強調する怪談が増えたような気がします。初めは違和感があったが、最近はそれもひとつの役割なのかなと考えるようになった。語り継がれることで、災害の恐ろしさが伝わり、防災意識につながっていくかもしれませんから」
土方さんが被災地の不思議な話を初めて耳にしたのは、2011年の秋口だった。
「初盆が過ぎたあたりから、被災地で怪談が広まった。初盆や七回忌などで営まれる法事では親族や関係者が集まり故人を偲ぶ。被災地の怪談を生むのが、会いたいという思いや喪失感だとしたら初盆がひとつのきっかけだった気がします」
今年の3月11日は、東日本大震災から12年――十三回忌である。
たくさんの人が亡き人の面影を偲び、会いたいと願うだろう。土方さんは言う。 「今年の3月11日は特別な一日になるはずです」
——- 山川徹(やまかわ・とおる) ノンフィクションライター。1977年生まれ。東北学院大学法学部卒業後、國學院大學二部文学部史学科に編入。在学中からフリーライターとして活動する。『国境を越えたスクラム ラグビー日本代表になった外国人選手たち』(中央公論新社、2019)で、第30回ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞。ほかの著書に調査捕鯨に同行した『捕るか護るか? クジラの問題』(技術評論社、2010)、『カルピスをつくった男 三島海雲』(小学館、2018)、『最期の声 ドキュメント災害関連死』(KADOKAWA、2022)など