福島県内で働く原発作業員から「神も仏もあるものか?俺は家族も仕事も故郷も、震災で何もかも一瞬で失ったんだ」と言われたことがある。
私が僧侶であると知った時、彼は「坊さんは必要ない。帰ってくれ」とはっきりと言いきった。
しかし、何度も顔を合わせる中で「原発反対と言う人は福島に来て、一度は原発作業員として働いてみたらいい。日本中の原発を全て無くすにしても、莫大な労力が必要なんだよ。原発廃炉を希望する人達は、自分がその作業をやる!だから廃炉!と言う人はいるの?結局、俺たちのような末端の底辺の作業員にやらせるんだろ。原発を動かしてもらわないと困る・生活できない!という俺たちの声も聞いてほしいよ。」という胸の内を語ってくれた。
彼はしばしば私に暴言を吐くこともあった。
しかし私は黙って聴き続けた。
何もかも失った彼にとっては、「サンドバック」が必要だったのだ。
誰かに怒りをぶつける相手が必要だったのである。
また南相馬市の二○代女性は「原発再稼働には賛成。私一人が反対しても、電力会社や国は強引に再稼働させるんでしょう。だったら早めに再稼働させて、早く事故が起こって、この世が終わってほしい。私たちの世代は年金なんてあてにできないし、福島では子供を育てられる環境すらない。未来なんてどこにもない」と私に吐き捨てるように言い放ったことがあった。
その女性は両親を津波で喪っていた。
彼女は苦しい胸の内を誰にも言えず、ひとりで抱え込んでいたのだろう。
「未来なんてどこにもないと感じているんだね。そのことを他の誰かに話したりしたの?」と聞くと、「誰にも話せないよ。聞いてくれる人はいないもの」と答えた。
現代人の多くは、自らを「無宗教」と自認している一方、家族・地域・会社といった従来から存在する「縁」の希薄化に伴い、「孤立」状態にある人が増えている。
従って、家族がいても機能していないケースが、被災地を回る中でしばしば見られた。
「縁」を紡ぎなおす役割として宗教者が媒介となり、壊れてしまった人と人との「縁」を再構築する役割を担う事が、これからの宗教者の役割であると私は考えている。
そもそも、宗教が持っている智慧は、日常的な物の考えが通用しない震災時などでは、力になりうると私は感じている。
少子化に伴い、お寺の数は今後激減していくことは確実である。
葬式法事以外に、お寺や僧侶の存在が人々の心の拠り所となり、家族・地域・会社に代わる第四の縁を構築できるかどうか?今は、瀬戸際といってもよいだろう。