「こいつ(奥様)には世話になりましてね」「もう五○年、一緒に夫婦をやっているんですよ」「恥ずかしくてなかなか面と向かっては言えないのですが、妻には感謝しているんですよ」
私は以前、仏教を基盤とした緩和ケア病棟(ホスピス)に宗教者として勤務し、数百名の末期がん患者の最期に立ち会ってきた。
それらの経験の中で、患者や家族が、なかなか恥ずかしくて正面から言いにくいことも、第三者が間に立って、「媒介者」となることによって言えるようになるという経験をしている。
同様に、患者や家族が医療従事者に直接言いにくいことも、「媒介」役である宗教者に話すことで、両者の「潤滑油」となって間を取り持つことが出来るという経験もしている。
末期がんの男性は、宗教者である私に上記の言葉を言っているようで、実は連れ合いである妻に、その言葉を投げかけているのだ。
日本人の男性、特に中高年以上の男性たちは、特に妻や子供たちに向かって「愛しているよ」「ありがとう」と日頃から言える人は、どのくらいいるのだろうか?
人間は普段出来ないことは、末期がんになったからといって急には出来ない。
私は在宅を含めて今まで五百人以上の最期に立ち会ってきた。
その中で確信したことは、「人は生きてきたように死んで逝く」ということだ。
人間は急には変われない。
病室内で、夫婦がなかなか「言いにくいこと」を宗教者が「媒介」となり、話をうまく引き出すことで、「三方よし」の関係を構築出来る。
私たちは、誰しもが「人から認められたい」「人から受け入れたい」「他者から必要とされたい」と願っている。
しかし、私たちの社会は「ダメ出し」で満ちている。
「お前の代わりなんていくらでもいる」「結果が出せないのなら、辞めてくれて結構」など、否定や批判に満ちている。
さらに、家族・地域・会社といった縁も希薄化し、死後、長期間に渡って誰にも発見されず、ウジやハエが飛び交うような状態になって初めて発見されるという「孤立死」も多発している。
私たちは、日々、自分の生活に追われている。
時間的・精神的・経済的にも余裕がない。
だから、物事をゆっくり考えること、目の前の他人に優しい言葉をかけること、他人に親切にすることすら、なかなか難しい。
自分が求めているもの、してほしいことを、他人に与える事が出来ないという矛盾の中で私たちは生きている。
だからこそ、誰にも否定されず、自分の思いを安心して語れる場が必要不可欠である。
家族・地域・会社といった縁が希薄化しているのであれば、それらに代わる第四の縁を構築すればよい。
日本人の多くは自らを「無宗教」と呼ぶ。
しかし、世界中を見渡してみると、宗教のない国は皆無である。
欧米では、程度の差こそあれ、宗教(教会)が第四の縁の機能を果たしている。
では、日本ではどうであろうか?
宗教(仏教)が、第四の縁を構築する役割を果たしていると言えるだろうか?
「葬式仏教」という僧侶やお寺を揶揄した言葉がある。
私が東京都荒川区にある町屋斎場で職員数十人に「直葬(ちょくそう=通夜・葬儀を行わず、火葬のみでご遺体を荼毘にふすやり方。宗教者はもちろん、遺影写真もお位牌も何もないケースもある。場合によっては、生花すらない場合もある。費用は葬儀社によっても異なるが約二十万円前後から可能)の割合はだいたいどのくらいですか?と聞いて回った所、「約4割近くが火葬のみ」との答えが返ってきた。
将来的に、少子高齢化が進むにつれて、直葬の割合は増えることはあっても、減ることはないだろう。
宗教者(僧侶)が「葬式」すら必要とされない時代が迫ってきていることは明らかだ。
そして、社会においても民主主義の根幹が揺らいでいる時代の中、宗教者の存在意義とは何か?ということが今、改めて問われている。