1
長らくいじめは日本特有の現象であるかと思われていた。
私はある時、アメリカのその方の専門家に聞いてみたら、いじめbullyingはむろん、ありすぎるほどあるので、こちらでは学校の中の本物のギャングが問題だという返事であった。
学校に銃を持ってくるなということを注意し、実際に校門で検査しているのが一部高校の実情である。
こうなっては大変であるが、銃はともかく、日本でもいじめ側の一部がギャング化しているのは高額の金員を搾取していることからも察せられる。
外国では、英国のエリート学校であるいくつかのパブリック・スクールでのいじめが、よく知られている。
英国の数学者・哲学者バートランド・ラッセルの自伝にもケンブリッジ大学への準備に通っていた学校で、これは高級軍人コースのための予備校であったからなおさらであったが、毎日いじめられては夕陽に向かって歩いていって自殺を考え「もう少し数学を知ってから死のう」と思い返す段がある。
「戦場のメリー・クリスマス」という映画をごらんになった方は、パブリック・スクールでいじめられていた弟を見殺しにした罪悪感が主人公を死へのゆるやかな過程に駆り立てるのをみることができる。
そもそも彼が首だけ残して生き埋めにされるいじめ状況におかれるのは、彼が衝動的に日本将校にキスしたためで、それは将校がオランダ兵と同性愛に陥った朝鮮人軍属に切腹を強要した時であるが、この場面がかつて見過ごした弟へのいじめの場面と彼の頭の中で重なったからであろう。
これは「人間同士いじめあうのはもういいじゃないか」という端的な平和の希求であるが、この意外な行動は、多分、つかみかかろうとする衝動が形を変えたものであったのでもあろう。
ところが、キスは、不意打ちを食らった日本将校の潜在的同性愛感情を暴露して、恥辱感に駆り立てられた将校が、掘り起こされた感情を埋める代わりに主人公の英国将校を埋めるのだというふうに私には読めてしまう。
このように、いじめは、その時その場での効果だけでなく、生涯にわたってその人の行動に影響を与えるものである。
殺人は犯罪であって、軍人が戦場に臨んだ時にだけ犯罪でなくなることはよく知られている。
いじめのかなりの部分は、学校という場でなければ立派に犯罪を構成する。
そして、かつて兵営における下級兵いじめが治外法権のもとにおかれたような意味で、学校が法の外にあるように思われるのは多くの人が共有している錯覚である。
2
もっとも、いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。
冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。
いじめでないかどうかを見分けるもっとも簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。
鬼ごっこを取り上げてみよう。
鬼がジャンケンか何かのルールに従って交替するのが普通の鬼ごっこである。
もし鬼が誰それと最初から決められていれば、それはいじめである。
荷物を持ち合うにも、使い走りでさえも、相互性があればよく、なければいじめである。
鬼ごっこでは、いじめ型になると面白くなくなるはずだが、その代わり増大するのは一部の者にとっては権力感である。
多数の者にとっては犠牲者にならなくてよかったという安心感である。
多くの者は権力側につくことのよさをそこで学ぶ。
子どもの社会は権力社会であるという側面を持つ。
子どもは家族や社会の中で権力を持てないだけ、いっそう権力に飢えている。
子どもが家族の中で権利を制限され、権力を振るわれていることが大きければ大きいほど、子どもの飢えは増大する。
いじめる側の子どもにかんする研究は少ない。
彼らが研究に登場するのは、家族の中で暴力を振るわれている場合である。
あるいは発言したくても発言権がなくて、無力感にさいなまれている場合である。
たとえば、どれだけ多くの子どもが家庭にあって、父母あるいは嫁姑の確執に対して一言いいたくて、しかしいえなくて身悶えする思いでいることか。
そういう子どもが皆いじめ側になるわけではない。
いじめられる側にまわるほうが多く、その結果、神経症になるほうが多いだろう。
最近、入院患者の病歴をとっていると、うんざりするほどいじめられ体験が多い。
また、何らかの形でいじめを克服して、それが職業選択を左右しているかもしれない。
もう20年前になるが、私が精神科医仲間にそれとなく聞いてまわったところでは(私も含めてーー私は堂々たるいじめられっ子である)圧倒的にいじめられっ子出身が多かったが、一人の精神科医はいじめ側であったといい、何人も登校拒否児を作ったから罪のつぐないに子どもを診ているのだと語った。
しかし、いじめ方を教える塾があるわけではない。
いじめ側の手口を観察していると、家庭でのいじめ、たとえば配偶者同士、嫁姑、親と年長のきょうだいのいじめ、いじめあいから学んだものが実に多い。
方法だけでなく、脅かす表情や殺し文句もである。
そして言うを憚ることだが、一部教師の態度からも学んでいる。
一部の家庭と学校とは懇切丁寧にいじめを教える学校である。
それだけでなく、子どもには許されていない多くの事柄が大人には許されていることを子どもは日々味わっていて、ひそかに理不尽だと思っている。
家庭や学校でいじめが大人に許されているからには、子どもに許されないのもそういう理不尽の一つであると子どもは思う。
彼らはバレないようにしなければならないことだとは思うが、それは損得の問題であって、道徳的感情とは別個のことである。
喫煙を取り締まる学校の教員室が煙で充満しているのと同じことだと彼らは思う。
3
権力欲とはどういうものであろうか。
人間にはさまざまな欲望がある。
仏教をはじめ、多くの宗教は欲望をどうするかという問題と取り組んできた。
しかし欲望の中には睡眠欲もあって、これは一人で満足でき、他に迷惑をかけない。
食欲も基本的には同じであるが、他人の食を意識的に奪う場合もあり、知らず知らずの間に奪う場合もあり、他の生命を犠牲にすることは避けられなくて、睡眠欲ほど無邪気ではない。
情欲となると、これは基本的には二人の間の問題であり、必ずしも自分の思いどおりにならず、睡眠や食事よりも自分の中に葛藤を起こすことも少なくない。
しかし、権力欲はこれらとは比較にならないほど多くの人間、実際上無際限に多数の人を巻き込んで上限がない。
その快感は思いどおりにならないはずのものを思いどおりにするところにある。
自己の中の葛藤は、これに直面する代わりに、より大きい権力を獲得してからにすればきっと解決しやすくなるだろう、いやその必要さえなくなるかもしれないと思いがちであり、さらなる権力の追求という形で先延べできる。
このように無際限に追求してしまうということは、「これでよい」と言う満足点がないということであり、権力欲には真の満足がないことを示している。
権力欲には他の欲望と異なって真の快はない。
そして「淮南子」にいう「それ物みな足らざるところあればすなわち鳴る」である。
睡眠欲も食欲も情欲も満足があり、満足とともに追求がやむ。
例外はある。
睡眠欲はともかく、食欲と情欲が無際限に追求される場合である。
この場合、いや一般にこれらがとりたてて問題となる場合の多くはこれらの欲望が権力の手段となり下がった場合である。
たとえば情欲が相手を支配する手段となる場合である。
この場合、情欲自体の純粋な快楽は失われ、相手の気持ちにかまわず相手におのれの欲望を受け入れさせることが真の目的となる。
食欲の場合はたとえば古代ローマ時代の版図全体の珍味を集めた「シーザーの食卓」である。
インド孔雀の舌の味そのもののよしあしはさほどの問題でなかろう。
非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。
教育も治療も介護も布教もーー。
多くの宗教がこれまで権力欲を最大の煩悩として問題にしてこなかったとすれば、これは実に不思議である。
むろん、権力欲自体を消滅させることはできない。
その制御が問題であるが、個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋
を見いだしているとはいいがたい。
差別は純粋に権力欲の問題である。
より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。
差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。
遊びにおいて、ただむやみに勝つことでなく、無理押しをやめ、ルールに従うことに真の満足を見いだすようになるのは小学校でおいてであると、私の尊敬する米国の精神科医ハリー・スタック・サリヴァンは指摘している。
多くの人はそれはほぼ4年生に起こると告げる。
とすれば漫画「ドラえもん」の子どもたちは5年生だそうであるから遅れている。
そこで未来から来たロボット・ドラえもんは小道具を使って彼らに一生懸命ルールに従うことの楽しみを教え、むき出しの権力欲が損であることを教え、他によりよい選択がないことを教えているのであろう。
ルールに従って遊べるのは4年生からであるとすればその前年である3年生が非常に重要であるはずだ。
実際、子どもの絵画を見ていると遠近法に従うようになるのは3年生から始まって5年生に完成する
(思春期になってまた乱れる)。
遠近法が描けるということは、これを頭の中の抽象空間に移せば、物事の軽重の順序、緊急か猶予があるか、優先順位が何かなどを整合的に表象できることである。
ルールに従ってプレイできるということもその一部で、そういうものを頭の中の空間に遠近法的に配置
できることを示すものである。
野球というゲームを観戦していると、これは非常に精密な遠近法的時空の刻々の変化に対していかに対応してゆくかという課題への応答だと思う。
それも非常にスキルに満ちた応答であることに感銘を受ける。
ルールに従って遊ぶ快が今の子どもから消えていないことの証明はパソコン・ゲームを好むことからも
明らかである。
ただそれは主体と主体との間に架かる揺れてやまない仮橋の上で平均を失わずにいるという人間関係的な要素が欠けている。
精密機械という相手はいかなる独裁者よりも非妥協的である。
4
いじめが権力に関係しているからには、必ず政治学がある。
子どもにおけるいじめの政治学はなかなか精巧であって、子どもが政治的存在であるという面を持つことを教えてくれる。
子ども社会は実に政治化された社会である。
すべての大人が政治的社会をまず子どもとして子ども時代に経験することからみれば、少年少女の政治社会のほうが政治社会の原型なのかもしれない。
いじめはなぜわかりにくいか。
それは、ある一定の順序を以て進行するからであり、この順序が実に政治的に巧妙なのである。
ここに書けば政治屋が悪用するのではないかとちょっと心配なほどである。
私は仮にいじめの過程を「孤立化」「無力化」「透明化」の三段階に分けてみた。
他にもいろいろな分け方があるだろうと思うが、取りあえず、これに従って説明しよう。
これは実に政治的隷従、すなわち奴隷化の過程なのである。
まず、「孤立化」である。
孤立していない人間は、時たまいじめに会うかもしれないが、持続的にいじめの標的にはならない。
また、立ち直る機会がある。
立ち直る機会を与えず、持続的にいくらでもいじめの対象にするためには、孤立させる必要があり、いじめの主眼は最初「孤立化作戦」に置かれる。
その作戦の一つは、標的化である。
誰かがマークされたということを周知させる。
そうするとそうでない者がほっとする。
そうして標的から距離を置く。
それでも距離を置かない者には、それが損であり、まかり間違うと身の破滅だよということをちらつかせる。
ついで、いじめられる者がいかにいじめられるに値するかというPR作戦が始まる。
些細な身体的特徴や癖からはじまって、いわれのない穢れや美醜や何ということはない行動や一寸した癖が問題になる。
これは周囲の差別意識に訴える力がある。
何の意味であっても「自分より下」の者がいることはリーダーになりたくてなれない人間の権力への飢餓感を多少軽くする。
このPR作戦は年長者にも向けられる。
うかうかしていると教師といえども巻き込まれる。
いや、うかうかしていなくてもである。
「そういえばあいつにそんなところがあるよなあ」という何げない一言、いやかすかなうなずき、黙って聞いていることさえも、加害者には千万の味方を得た思いを与え、傍観者には傍観の許しを与える。
それだけではない。
PR作戦は被害者にも自分やいじめられても仕方がないという気持ちを次第にしみ通らせる。
被害者は被害者なりに、どうして他の者でなくこの自分がいじめられるのかという、理不尽な事態に
自分なりの説明を与えようと必死になっている。
PR作戦は彼あるいは彼女にも届く。
自分がいじめられてしかるべき、みにくい、魅力のない、好かれない、生きる値打ちのない、ひとりぼっちの存在であると被害者は次第に思い込む。
この被害者の思い込みは、実際に被害者をそういう見掛けに仕立ててゆくばかりでなく、加害者と傍観者とを勇気づける。
教師さえ、家庭への連絡帳にあなたのお子さんの欠点として、まさにPR作戦の内容どおりを書くかもしれない。
これは、子どもを家庭からも孤立させる。
なるほど被害者は、初め、自分の行いをただすとか、弁明するとかして、この状態から抜け出そうとする。
そのことは時には成功するが、時にはいっそう不愉快な事態に追い込まれる。
外国人が日本語を巧みに操る場合、周囲がますます些細な欠点に敏感になるという事態が起こる。
別の方言を使う転校生が言葉遣いを変えようとする際と全く同じ場合である。
この些細な差異への敏感さの裏には差別を求める意識が働いている。
言語による階級差の著しい英国人の場合、庶民はインド人の英語を笑いものにする。
ニューヨークのイタリア系移民は黒人の英語を真似て笑う。
それだけでなく、被害者は、絶えず気を配っていなければならない。
周囲にも自己の仕種や言葉遣い、振る舞いにもである。
その結果、被害者は一種の警戒的超感覚状態に陥る。
彼は緊張から解放されることがなく、それは被害者の自律神経系や内分泌系、免疫系さえも変え、その心身の緊張は周囲に察知される。
ぴりぴり、おどおど、きょろきょろし、顔色が青ざめ、脂汗を流すなどはそういう場合に起こって当然の生理的反応であるが、この状態は周囲の人を遠ざけ、また、被害者自身も周囲に対してゆとりのある応対ができなくなる。
しかし、被害者は気をゆるめることができない。
加害者の圧倒的有利性は、攻撃点を自由に選べることである。
攻撃の焦点も方法も場所も時間も自由に選べ、圧倒的に有利な時と場所と方法と焦点を選んで攻撃を行える。
PRしたい時には大勢の前でやり、相手を屈服させるためには相手が独りでいる場合を選ぶだろう。
そのように、彼がいつどこにいても孤立無援であることを実感させる作戦が「孤立化作戦」である。
5
しかし、孤立化の過程においては、相手はまだ精神的に屈服していない。
ひそかに反撃の機会を狙っているかもしれない。
加害者はまだ枕を高くしておれない。
次に加害者が行うことは相手を無力化することである。
孤立化作戦はすでに無力化を含んでいる。
孤立するということは大幅に力を失うことである。
しかし、「無力化作戦」はそれだけでは終わらない。
この作戦は、要するに、被害者に「反撃は一切無効である」ことを教え、被害者を観念させることにある。
そのためには、反撃は必ず懲罰的な過剰暴力を以て罰せられること、その際に誰も味方にならないことを繰り返し味わわせる必要がある。
反抗の微かな徴候も過大な懲罰の対象となる。
さらには、「反抗を内心思ったであろう、そのはずだ」という言いがかりをつけて懲罰することも有効である。
これは被害者に、加害者よりも自分の振る舞いの方に、さらにはおのれの内心の動きへと眼を向けるようにさせる効果もある。
加害者の指摘は当て推量であっても、当たって当然である。
相手に抗がって現状から抜け出したい気持ちがあるに決まっているからである。
だから被害者は内心ぎくりとする。
加害者は「何もかも見通しだ」ということを誇示し、被害者は加害者が人の心を見すかす能力があると誤って信じ込む。
これに比べて加害者の心の内を読みたくてしかたがないのにさっぱり読めない自分を情けない、劣った人間だと思い込んでしまう。
ついに指摘されれば反抗を思っていなくても思ったような気がしてやましく思う。
このように被害者は飼い馴らされてゆく。
被害者が大人に訴え出ることには特に懲罰が与えられなければならない。
それは加害者の身の安全のためではない。
加害者はもはや孤立化作戦をとおして、大人が自分に手出しできないことがわかっている。
そうではなくて、「大人に話すことは卑怯である」「醜いことである」という道徳教育を被害者に施すのである。
被害者は次第にこの「モラル」「美学」を自分の中に採り入れるようになる。
彼は自分でも大人に訴えるのを醜いことと思うようになる。
それに、すでに孤立化作戦の期間に、いじめというものは大人が介入できない構造を持っているという
思い込みをしっかりと持つようになっている。
これには事実の裏づけもある。
残念ながら大人が有効な介入をしないことはあまりに多い事実である。
被害者は、すべての段階で「これみてさとれ」というサインを周囲に、特に教師や両親に出しつづける。
しかし、このサインが受け取られる確率は太平洋の真ん中の漂流者の信号がキャッチされる確率よりも
高いとは思えない。
実はここは加害者としてものるかそるかのヤマ場である。
ここで失敗すれば、加害者はその威力を大幅に失い、その回復に非常に時間がかかり、時には回復できず、彼自身が孤立し、ひょっとするといじめられっ子に転落する可能性さえある。
したがって、もっともひどい暴力が振るわれるのはこの段階であるかもしれない。
孤立化段階、特にその初期においては暴力を振るえば世論を敵に回し、逆に加害者が孤立するかもしれない。
加害者が傍若無人なのはみせかけであって、加害者は最初から最後まで世論を気にしている。
それも、教師を代表とする大人世界と子ども世界の両方の世論をである。
しかし、孤立化作戦が成功した今は、前ほどは気にする必要がない。
孤立化作戦は、まさにそのために行われた作戦であり、それは直接被害者に行われる場合でも、同時に社会に対する作戦である。
少なくとも、社会を考慮においた作戦である。
いじめを内心苦々しく思っている者、場合によっては起(た)って制止してもよいと思っている者が、この事例には自分がそうするだけの価値はないとして目をつぶり「パス」するようになれば、加害者にとってはしめたものである。
ここで暴力をしっかり振るっておけば、あとは暴力を振るうぞというおどしだけで十分である。
暴力それ自身は、振るいたい時にいつでも振るえるとなれば、それほど頻繁に振るうものではない。
暴力を以て辛うじて維持されている権力というものは危うい権力であり、権力欲の観点からみて、決して快い権力ではない。
進んで、自発的に隷従されることが理想である。
もっとも、この理想に近づけば近づくほど、加害者は被害妄想的になる。
スターリンが好例である。
それは究極のところ、人間はそのような隷従者にはなりえないという加害者側の認識に、もどずいている。
そもそも自由意志によって自発的に自由を完全に放棄することなどはありえない。
エールリヒ・フロムのいう「自由からの逃走」の誘惑は隷従へのほんの入口まで魅力的であるにすぎない。
そこを過ぎれば「しまった、こんなはずではなかった」と後悔するがたいていは晩い。
一部は加害者の手下になるが「こんなはずではなかった」と思いつづけるはずだ。
6
この辺りから、いじめは次第に「透明化」して周囲の眼に見えなくなってゆく。
一部は、傍観者の共謀によるものである。
古都風景の中の電信柱が「見えない」ように、繁華街のホームレスが「見えない」ように、そして善良なドイツ人に強制収容所が「見えなかった」ように、「選択的非注意selective inattention」という人間の心理的メカニズムによって、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなる。
あるいは全く見えなくなる。
責任を有する大人もさまざまな言い訳を用意している。
「子どもの世界には大人がうっかり容喙してはならない」から始まって「自分もいじめられて大きくなった」「子どものためになるだろう」「あいつに覇気がないからだ」等々。
これらは荒唐無稽でなく、一面の真理を含んでいる。
しかし、いくら真理を含んでいても弁明は弁明である。
弁明にすぎない。
しかし、第三者に見えないのは、第三者が「見ない」だけではない。
実際、この時期に行われる「透明化作戦」によってざっと見たぐらいでは見えなくなっているのである。
この段階になると、被害者は孤立無援であり、反撃あるいは脱出のために無力である自分がほとほと
嫌になっている。
被害者は、次第に自分の誇りを自分で掘り崩してゆく。
さらに被害者の世界が狭まってゆくということがある。
加害者との対人関係だけが内容のある唯一の対人関係であって、大人も級友たちも非常に遠い存在となる。
遠く、実に遠く、別世界の住人のように見えてくる。
空間的にも、加害者のいない空間が逆説的にも現実感のない空間のようになる。
いや、たとえ家族が海外旅行に連れだしても、加害者は”その場にいる”。
空間は加害者の臨在感に満ちている。
いつも加害者の眼を逃れられず、加害者の眼は次第に遍在するようになる。
独裁国の人民が独裁者の眼をいたるところに、そしていつも、感じるのと同じ心理的メカニズムである。
時間的にも、加害者との関係は永遠に続くように思える。
たとえ、後2年で卒業すると頭でわかっていても、その2年後は「永遠のまだその向こう」である。
ここで、子どもの時間感覚が単位時間を大人よりも遥かに長く感じさせることはぜひ言っておかなければならない。
精神療法家ミルトン・エリクソンは弟子が子ども患者との面接を2週間延期したことを叱って「子どもにとって2週間は永遠に等しい」と断言している。
この時間感覚の落差は「年齢の二乗に反比例する」(ポール・フレッス)ほど激しい。
その上、いじめに遭っている時間は、苦痛な時間が常にそうであるように、いっそう長く、いつまでも終わらないほど長く感じられる。
これが時間感覚の耐えがたさをいやがうえにも強調する。
被害者は、次第に、その日さほどいじめられなければいいやと思うようになっていく。
そうなれば、加害者に会ってもいじめられなかった日はまるで恩寵のように感じられる。
被害者はこの恩寵を次第に加害者から授かった、実にありがたい恩恵であるように感じはじめる。
すでに加害者との対人関係がほどんど唯一の対人関係になっているから、被害者は加害者の気分や些細な表情や仕種に非常に敏感になり、被害者の全感情が加害者の一顰一笑に依存し、それに従って動揺するようになってゆく。
被害者は加害者に感情的にも隷属してゆくのである。
これを強調するために加害者はしばしば自分の気まぐれを誇張して表現し、被害者が予測できないようにする。
予測というものは圧倒的な敵に対した時の最後の主体的行為であるから、これを封じ込めることは、被害者の知性を惑乱する効果がある。
被害者が知的な少年少女である場合には、この予見不能性は特にその自己信頼を失わせる効果がある。
こうなると、加害者は些細な恩恵、たとえば今日だけは勘弁してやるという「恩恵」によって、「透明化作戦」に際して被害者の全面的協力を期待することができる。
被害者は、大人の前で仲良しを誇示することもある。
楽しそうに遊んでみせることもある。
加害者の末席に連なることもある。
それも加害者の中に加わっているところを目撃させるように加害者ははからう。
このことによって被害者は「被害者」というアイデンティティ、最後の拠りどころであるこの資格さえ奪われる。
なるほどよく見れば仲良しの誇示の場合にも眼が笑っておらず、楽しそうな遊びにも、遊びに欠かせないダイナミックな揺らぎがない。
加害者の列に混っていてもその子だけ身体に硬ばりがある。
しかし、それらはよほどめざとい大人の眼にしか止まらない。
また仮に止まっても、大人の半分には電柱あるいはユダヤ人と同じく選択的非注意によって「見えない」。
さらに、この段階に至ると、子どもは、大人が「だれかにいじめられているのではないか」と尋ねると、激しく否定し、しばしば怒り出す。
家族である場合には怒りの余り暴力を振るうことさえある。
それは「何をいまさら」「もう遅い」という感覚でもあるが、自分のことは自分で始末をつけるという最後のイニシアティヴ感覚を大人の介入によってあてどなく明け渡してしまう喪失感を先取りするためでもある。
明け渡すことによって得るものが期待できないのに自分の中に残っている最後のパワーをむざむざ明け渡して失ってしまうという、この喪失感は、多くの幸福な大人の理解しがたいものであるが、ぜひ理解しなければならない。
「透明化作戦」の過程で行われるものに「搾取」がある。
特に多額の金銭の搾取である。
これは実利的な意味もあるが、それにとどまらず、被害者にはさらに大きな打撃的効果がある。
被害者は、金銭調達のために、すべての楽しみを捨てて、まず小遣いを、次に貯金を差し出す。
その次には家庭から盗み出すか、万引きする他はない。
被害者は資源を失って赤裸にされるだけでなく、家族と社会に対して重大な犯罪を犯す。
これは彼にとって非常な自尊心の喪失であり、家族への裏切りであり取り返しがつかない「罪」であって、家族・社会との最後の絆を自分の手で切り離してしまうことである。
ここに「孤立化」も「無力化」も完成する。
資産と権利とを失った、奴隷にして罪人であると被害者は感じる。
しかし、何よりも被害者を打ちのめすのは、そのようにして被害者にとってはいのちがけで調達した金員を、加害者がまるで無価値なもののように短時間で慰みごとに浪費したり、甚だしきは燃やしたり捨てたりすることである。
これは加害者が加害者にとっては被害者の献身的行為も無に等しいということを被害者に見せつけるために行う行為である。
被害者にとっては、加害者がいかに巨大で、自分がいかにちっぽけでとるに足りないかを身に染みてしたたか味わう瞬間である。
ふつうなら笑いとばすような無理難題にも一生懸命にこれを果たそうとしている自分に子どもは気づき、ほとほと自分が嫌になる。
なるほど、子どもの世界には法の適用が猶予されている。
しかし、それを裏返せば無法地帯だということである。
子どもを守ってくれる「子ども警察」も、訴え出ることのできる「子ども裁判所」もない。
子どもの世界は成人の世界に比べてはるかにむきだしの、そうして出口なしの暴力社会だという一面を持っている。
むろん、あの戦時中さえ、食糧難は知らないという人にも、家族親戚に出征者がいないという人にも私は会っている。
そのように、子どもの社会のこういう面を知らずに成人した人も多いであろう。
だが、その中に陥った者の「出口なし」感はほとんど強制収容所なみである。
それも、出所できる思想改造収容所では決してなく、絶滅収容所であると感じられてくる。
その壁は透明であるが、しかし、眼に見える鉄条網よりも強固である。
初出「アリアドネからの糸」1997年