今からもう、14年ほど前になる。
2009年3月19日の夜に、群馬県渋川市にある静養老人施設「たまゆら」で火災が発生し、10人の方が亡くなった事件を覚えているだろうか。
私は、亡くなった10人のうち7人は東京(墨田区6人・三鷹市1人)の出身と聞き、ショックを受けた。
何故、群馬県渋川市の山奥の施設で亡くなった人の7名が、東京出身なのか?
それは、東京都は住宅事情が貧困で、住み慣れた街で暮らしたいと願っても、生活困窮者で介護などのケアが必要な方にとっては適切な住まいが見つからず、地方の劣悪な施設に移らなければならないケースが多々あるからだ。
生活困窮者にとって「住み慣れた街で暮らしたい」というささやかな願いは、もはや東京では難しいのだろうか。
東京在住の私にとって、この問題は他人事とは思えなかった。
火災事件直後、NPO関係者から「たまゆらで亡くなられた方を弔いたいので、力を貸してほしい」という依頼が入った。
すぐに、以下のような声明文を作成し、東京で追悼法要を行った。
「たまゆら」火災事件犠牲者を悼む都民の集い(当時のまま掲載)
2009年3月19日夜、群馬県渋川市の高齢者施設「静養ホームたまゆら」で火災が発生し、10人の方の尊い命が奪われました。
私たちはこの事件に胸を痛める東京都民の集まりです。
火災の後、「たまゆら」が老人福祉法上の「有料老人ホーム」であるにもかかわらず、群馬県に届出をしていなかったこと、施設にはスプリンクラーや自動火災報知器はなく、入所者16人が3棟に分散して生活していたにもかかわらず火災当日は当直職員が1人しかいなかったこと、建築基準法に基づく県への申請をせずに増改築を繰り返していたこと、居室と食堂をつなぐ引き戸につっかい棒をしていたことなどが次々と判明し、この施設が入所者の安全性を無視して、コスト削減を図った「貧困ビジネス」である疑いが強まりました。
また、「たまゆら」に入所していた16人のうち13人は東京都墨田区からの紹介で入所しており、入所後も渋川市に移管せず、墨田区で生活保護を受けていたことも判明しました。
墨田区福祉事務所の担当者はテレビカメラの前で、高齢者を受け入れてくれる施設が圧倒的に不足する中で、都外の無届施設への入所をやむをえず行なっていたと苦渋の表情で語りました。
なぜこのような悲劇が起こってしまったのでしょうか。
まず第一には、「たまゆら」を経営するNPO法人彩経会の責任があります。
現在、群馬県警が業務上過失致死傷容疑で立件する方針だと伝えられており、私たちはこの動きを注視し、事件の全容が解明された上で責任の所在が明らかになることを望んでいます。
第二には行政機関の責任があります。新聞報道によると、東京23区から「たまゆら」と類似の無届施設に入所している生活保護受給者は690人(東京新聞3月24日付け夕刊)、障害者施設や特別養護老人ホームなども加えた都外の施設に暮らす生活保護受給者は累計で1483人にのぼる(朝日新聞2009年3月25日付け朝刊)と言います。
今回の事件の背景にはケースワーカーの不足など生活保護行政の抱える問題と同時に、東京都内における公的な高齢者施設が圧倒的に不足している現実があります。
国や東京都が公的な施設の整備を怠ってきた責任は大きいと言えます。
こうしたことを踏まえた上で、私たちは私たち都民にも責任があると感じています。
低所得で身寄りのない高齢者が、防火設備も職員体制も整っていない遠隔地の劣悪な施設に送られてしまう。
戦後の激動の時代を生き抜いてきたお年寄りが「住み慣れた地域で余生を過ごしたい」と願ったとしても、そうしたささやかな願いさえも実現できないような街に東京はなってしまっています。
それは経済優先、お金儲け優先で、人と人とのつながりや暮らしの営みを軽視してきた私たちの社会、私たちの生き方そのものを象徴していると私たちは感じています。
私たちは今回の火災で犠牲になった方々に心より哀悼の意を捧げたいと思います。
そして、今回の悲劇を引き起こした社会のありようを見据え、一人ひとりが尊重される世の中にしていきたいと願っています。
奪われてしまった命は戻ってはきません。
炎に包まれて亡くなられた方々の無念に想いを寄せようとしても、その想いは届かないのかもしれません。
それでも、この社会を作った一人ひとりとして、私たちは追悼の想いを胸に刻みたいと思います。
多くの方々、とりわけ東京都民の皆さんに私たちの取り組みへの参加を呼びかけます。
日本の福祉政策は「たまゆら火災事件」で明らかになったように、高齢者の生活困窮者向けの住宅問題に対して、十分な支援策を講じてこなかった。
その責任は大きい。
一方で、私自身、墨田区の福祉事務所を訪問してスタッフと話をしたところ、区のケースワーカー不足が深刻な上に、住まいに困った人から一日に複数の申請があり、その日のうちに受け入れ先を探さねばならないケースまであるという。
その中で、施設の防火設備のチェックまではとても手が回らない状況であり、認知症や寝たきりの高齢者らが、施設になかなか受け入れてもらえない現状を聞かされ、何ともやりきれない気持ちになったことを覚えている。
私たちの活動の影響もあってか、この「たまゆら火災事件」に関する一連の報道は、メディアにも大きく取り上げられた。
追悼集会の準備を進める中で、死者10人のうち、その多くは未だ引き取り手が見つかっていないという新聞記事も見つけた。
火事という衝撃的な亡くなり方をしたにも関わらず、「遺骨の引き取り手すら見つかっていない」という現実・・・。
この現実を、どう認識すればよいのだろうか?
東京での追悼集会後、私たちは現地に赴き、雨の中四十九日法要を行うとともに、翌年には一周忌法要も行った(写真↓)。
降りしきる雨の中、現地で読経が始まると雨は一層強くなり、法要の儀式が終わると、雨はぴたりと止んだ
雨の中の四十九日法要は、いまだに忘れることが出来ない。
炎に包まれて焼け死んだ人々の叫びが「熱いよぉ~」「助けてぇ~」と焼跡の中から聞こえてくるようだった。
読経が始まると雨は一層強くなり、法要の儀式が終わると雨はぴたりと止んだ。
今考えれば、雨は、炎に包まれて焼け死んでいった人たちの「涙雨」だったかもしれない。
火災事件後「たまゆら」の理事長は逮捕され、火災事件はやがて貧困ビジネスとしても大きくメディアで取り上げられた。
しかし、亡くなった10人の方々については、メディアで詳しく取り上げられることはなかった。
それらの遺骨は、現在でも、親族の引き取り手が現れていない。
私たちが現地で法要のために故人の生前を偲ぶものを探しても、写真すら見つからない方も多く、ご近所の方が描いた似顔絵を祭壇に飾って対応した(写真)。
たまゆら火災で亡くなった方々は、生前からほとんど写真を撮るような繋がりや関係性がなく、家族との縁も切れていた結果、遺骨の引き取り手が無い状態になってしまったのだろう。
現在、「たまゆら」火災事件はもう既に風化し、人々の記憶から忘れ去られようとしている。
10人の死は、私たちに一体何を残したのだろうか?
10人の方々の死には、どんな意味があったのだろう?
たまゆら火災事件から、まもなく14年。
貧しく、家族とのつながりも切れ、社会から孤立した状態にある方々に対する「住まいの貧困問題」は、2009年当時から14年近く経った今、どう変わったのだろうだろうか?
ずっと自問自答している。