「逝きし世の面影」

かつて日本は子どもたちの楽園だった 

渡辺京二


(日本人の国民的特性)知的訓練を従順に受け入れる習性や、国家と君主に対する忠誠心や、付和雷同を常とする集団行動癖や、さらには「外国を模範として真似するという国民性の根深い傾向」

「逝きし世の面影」17p


たとえば昔の日本人の表情を飾ったあのほほえみは、それを生んだ古い心性と共に、永久に消え去ったのである、、、

フランス人画家レガメの陳述を聞こう。

レガメによれば、日本人のほほえみは「すべての礼儀の基本」であって、「生活のあらゆる場で、それがどんなに耐え難く悲しい状況であっても、このほほえみはどうしても必要なのであった」。

そしてそれは金であがなわれるのではなく、無償で与えられるのである。

このようなほほえみー後年、不気味だとか無意味だとか欧米人から酷評される日本人のてれ笑いではなしに、欧米人にさえ一目でその意味がわかったこの古いほほえみは、レガメが二度目の来日を果たした1899年には、「日本の新しい階層の間では」すでに「曇り」を見せ始めていた。

少なくとも、レガメの眼にはそう映ったのである。

「逝きし世の面影」18p


文化人類学はある文化に特有なコードは、その文化に属する人間によっては意識されにくく、従って記録されにくいことを教えている。

「逝きし世の面影」19p


チェンバレンによれば、欧米人にとって「古い日本は妖精の棲む小さくてかわいらしい不思議の国であった」、、、

「一般的に言って、教育ある日本人は彼らの過去を捨ててしまっている。彼らは過去の日本人とは別の人間、別のものになろうとしている」。

「逝きし世の面影」20p


アーノルドは日本を「地上で天国あるいは極楽にもっとも近づいている国だ」と賞讃し、「その景色は妖精のように優美で、その美術は絶妙であり、その神のようにやさしい性質はさらに美しく、その魅力的な態度、その礼儀正しさは、謙虚ではあるが卑屈に堕することなく、精巧であるが飾ることもない。

これこそ日本を、人生を生甲斐あらしめるほとんどすべてのことにおいて、あらゆる他国より、一段と高い地位に置くものである」と述べたのだが、翌朝の各紙の論説は、アーノルドが産業、政治、軍備における日本の進歩にいささかも触れず、もっぱら美術、風景、人びとのやさしさと礼儀などを誉めあげたのは、日本に対する一種の軽視であり侮辱であると憤激したのである。

「逝きし世の面影」21p


ボーヴォワルにとって、日本は妖精風の小人国であった。

「どの家も樅材で作られ、ひと刷毛の塗料も塗られていない。感じ入るばかりに趣きがあり、繊細で清潔且つ簡素で、本物の宝石、おもちゃ、小人国のスイス風牧人小屋である、、、
日が暮れてすべてが閉ざされ、白一色の小店の中に、色さまざまな縞模様の提灯が柔らかな光を投げる時には、魔法のランプの前に立つ思いがする」、、、

「漆塗りの小さな飾り物、手袋入れの箱、青銅のブローチ」など、「つまらぬものだが可愛い品々」の方に引き返す。

この「こまごまとした飾り物」こそ彼が発見した”日本”だった。彼はそういうものに「目がまわらんばかりに酔わされた」のである。漆器にいたっては、彼の魅了されぶりは「まさに熱病そのものであった」。

これはまさにオリエンタリズム丸出しの無邪気な記述と読める。

何が煙草入れだ、何がこまごまとした飾り物だ、現実はどこにあるのだと、サイードなら憤慨するところだろう。しかしボーヴォワルにとって、それが日本の”現実”にほかならなかった。

「逝きし世の面影」29p


オズボーンは最初の寄港地長崎の印象をこう述べている。

「この町でもっとも印象的なのは男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるということだった」。

オリファントもいう。

「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である」、、、

「われわれの最初の日本の印象を伝えようとするには、読者の心に極彩色の絵を示さなければ無理だと思われる。シナとの対照がきわめて著しく、文明が高度にある証拠が実に予想外だったし、われわれの訪問の情況がまったく新奇と興味に満ちていたので、彼らのひきおこした興奮と感激との前にわれわれはただ呆然としていた。この愉快きわまる国の思い出を曇らせるいやな連想はまったくない。来る日来る日が、われわれがその中にいた国民の、友好的で寛容な性格の鮮やかな証拠を与えてくれた」

「逝きし世の面影」39p


「日本人は私がこれまで会った中で、もっとも好感のもてる国民で、日本は貧しさや物乞いのまったくない唯一の国です。私はどんな地位であろうともシナへ行くのはごめんですが、日本なら喜んで出かけます」と述べるほど日本びいきになっていた。

「逝きし世の面影」40p


日本では、衣服の点では家屋と同様、地味な色合いが一般的で、中国でありふれているけばけばしい色や安ぴかものが存在しないことにわれわれは気づいた、ここでは、上流夫人の外出着も、茶屋の気の毒な少女たちや商人の妻のそれも、生地はどんなに上等であっても、色は落ち着いていた。

そして役人の公式の装いにおいても、黒、ダークブルー、それに黒と白の柄がもっとも一般的だった。
彼らの家屋や寺院は同様に、東洋のどこと較べてもけばけばしく塗られていないし、黄金で塗られているのはずっと少ない、、、

あらゆる階級のふだん着の色は黒かダークブルーで模様は多様だ。
だが女は適当に大目に見られており、もちろんその特権を行使して、ずっと明るい色の衣服を着ている。それでも彼女らは趣味がよいので、けばけばしい色は一般に避けられる。

「逝きし世の面影」44p


彼らは自分たちの文明の決定的な優位性については揺るがぬ確信を抱いていたが、西欧文明とまったく基準を異にする極東の島国の文明に接したとき、自信とは別に一種のショックを受けずにはおれなかった。

このような“小さい、かわいらしい、夢のような”文明がありうるというのは、彼らにとって啓示ですらあった。

なぜなら、当時彼らが到達していた近代産業文明は、まさにそのような特質とは正反対の重装備の錯綜した文明であったからである。

「逝きし世の面影」53p


ギメにとって、日本の第一印象は「すべてが魅力にみちている」という言葉に示されるようによろこびに溢れたものだった。

彼は古代ギリシャ人のような日本人の風貌や、井戸に集う「白い、そしてバラ色の美しい娘たち」や、ひと目で中を見通せる住居の、すべてが絵になるような、繊細で簡素なよい趣味や、輝くばかりの田園風景について、惜しみない讃嘆の声をあげる。

しかし、彼の”第一印象”のうちで最も目立つのは、何といっても音に関するそれであろう。

サンパンの漕ぎ手たちが発する「調子のとれた叫び声」から始まって、重い荷車を曳くひと動きごとに車力が繰り返す、ソコダカ・ホイという歌に似た叫びや、漁師が櫓のひとかきごとに出す「鋭い断続的な叫び」や、ホテルの窓の下を通る、「幅の広い帯を締め、複雑な髪を結った」女たちの笑い声や陽気で騒々しい会話や、宿屋で見送りの女中たちが叫ぶ「サイナラ」という裏声に至る様ざまな音に、ギメは何と心を奪われていることか。

日本は何よりもまず、このような肉感的な物音のひしめく世界として、ギメの前に現れた。

ギメは鎌倉の八幡宮や大仏を見物したあと、片瀬の宿屋に泊った。

床について明かりを消すと、耳馴れぬ物音が続いて彼は眠れなかった。

まずは波の音ー海が震えているのだ。

その規則正しい音に混じって、ジ・ジというリズミカルな「一種の鳴き声が家の周りを走る」。

そして「木から木へ飛び移る恐ろしい呻き声」。

その正体は眠れぬままに窓を開けてみてわかった。

風が聖なる杉林を揺り動かし、山が震え唸っているのだ。

「星がきらめく夜空の下で、山が海に応え、陸と海とが」二重唱を歌っているのだった、、、

おそらく彼は、日本の夜には様々の霊や精が呼吸していて、人びとはその息吹きに包まれて眠るのだと感じて、ある感銘を覚えずにおれなかったのだ。

「逝きし世の面影」56p


彼らの第一印象の網にかかった事象はことごとく、「蒸気の力や機械の助けによらずに到達することができるかぎりの完成度を見せている」高度でゆたかな農業と手工業の文明、外国との接触を制限することによって独特な仕上げぶりに達したひとつの前工業化社会の性格と特質を暗示するフラグメントなのである。

「逝きし世の面影」59p


あなた方の文明は隔離されたアジア的生活の落ち着いた雰囲気の中で育ってきた文明なのです。

そしてその文明は、競い合う諸国家の衝突と騒動のただ中に住むわれわれに対して、命をよみがえらせるようなやすらぎと満足を授けてくれる美しい特質をはぐくんできたのです、、、

寺院や妖精じみた庭園の水蓮の花咲く池の数々のほとりで、鎌倉や日光の美しい田園風景のただ中で、長く続く荘重な杉並木のもとで、神秘で夢みるような神社の中で、茶屋の真っ白な畳の上で、生き生きとした縁日の中で、さらにまたあなたの国のまどろむ湖のほとりや堂々たる山々のもとで、私はこれまでにないほど、わがヨーロッパの生活の騒々しさと粗野さから救われた気がしているのです。

「逝きし世の面影」62p


私の意図するのは古きよき日本の愛惜でもなければ、それへの追慕でもない。

私の意図はただ、ひとつの滅んだ文明の諸相を追体験することにある。

外国人のあるいは感激や錯覚で歪んでいるかもしれぬ記録を通じてこそ、古い日本の文明の奇妙な特性がいきいきと浮かんで来るのだと私はいいたい。

そしてさらに、われわれの近代の意味は、そのような文明の実態とその解体の実相をつかむことなしには、けっして解き明かせないだろうといいたい。

「逝きし世の面影」65p


19世紀中葉、日本の地を初めて踏んだ欧米人が最初に抱いたのは、他の点はどうあろうと、この国民はたしかに満足しており幸福であるという印象だった。

ときには辛辣に日本を批判したオールコックさえ、「日本人はいろいろな欠点をもっているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる」と書いている。

「逝きし世の面影」74p


西洋の都会の群集によく見かける心労にひしがれた顔つきなど全く見られない。

頭をまるめた老婆からきゃっきゃっと笑っている赤児にいたるまで、彼ら群集はにこやかに満ち足りている。彼ら老若男女を見ていると、世の中には悲哀など存在しないかに思われてくる。

「逝きし世の面影」77p


ボーヴォワルは日本を訪れる前に、オーストラリア、ジャワ、シャム(タイ)、中国と歴訪していたのだが、「日本はこの旅行全体を通じ、歩きまわった国の中で一番素晴らしい」と感じた。

「逝きし世の面影」78p


「住民すべての丁重さと愛想のよさ」は筆舌に尽しがたく、たしかに日本人は「地球上最も礼儀正しい民族」だと思わないわけにはいかない。

日本人は「いささか子どもっぽいかも知れないが、親切と純朴、信頼にみちた民族」なのだ。

「逝きし世の面影」79p


「根が親切と真心は、日本の社会の下層階級全体の特徴である」。

「逝きし世の面影」80p


バードは言う。

「ヨーロッパの国の多くや、ところによってはたしかにわが国でも、女性が外国の衣装でひとり旅をすれば現実の危険はないとしても、無礼や侮辱にあったり、金をぼられたりするものだが、私は一度たりと無礼な目に逢わなかったし、法外な料金をふっかけられたこともない」。

「逝きし世の面影」83p


「なんという人たちだろう」とブスケは感嘆する。

「彼らはあまり欲もなく、いつも満足して喜んでさえおり、気分にむらがなく、幾分荒々しい外観は呈しているものの、確かに国民のなかで最も健全な人々を代表している。このような庶民階級に至るまで、行儀は申分ない」。

「逝きし世の面影」84p


当時の欧米人の著述のうちで私たちが最も驚かされるのは、民衆の生活のゆたかさについての証言である。

そのゆたかさとはまさに最も基本的な衣食住に関するゆたかさであって、幕藩体制下の民衆生活について、悲惨きわまりないイメージを長年叩きこまれて来た私たちは、両者間に存するあまりの落差にしばし茫然たらざるをえない、、、

「ここの田園は大変美しいーいくつかの険しい火山堆があるが、できるかぎりの場所が全部段畑になっていて、肥沃地と同様に開墾されている。これらの段畑中の或るものをつくるために、除岩作業に用いられた労働はけだし驚くべきものがある」。

10月27日には10マイル歩き、「日本人の忍耐強い勤労」とその成果に対して、新たな讃嘆をおぼえた。

「逝きし世の面影」100p


ハリスはこのような記述を通して何を言おうとしたのか。

下田周辺の住民は、社会階層として富裕な層に属しておらず、概して貧しいということがまず第一である。

しかしこの貧民は、貧に付き物の悲惨な兆候をいささかも示しておらず、衣食住の点で世界の同階層と比較すれば、最も満足すべき状態にあるーこれがハリスの陳述の第二の、そして瞠目すべき要点だった。

「逝きし世の面影」102p


オールコックは書く。

「封建領主の圧制的な支配や全労働者階級が苦労し呻吟させられている抑圧については、かねてから多くのことを聞いている。だが、これらのよく耕作された谷間を横切って、非常なゆたかさのなかで所帯を営んでいる幸福で満ち足りた暮らし向きのよさそうな住民を見ていると、これが圧制に苦しみ、苛酷な税金をとり立てられて窮乏している土地だとはとても信じがたい。

むしろ反対に、ヨーロッパにはこんなに幸福で暮らし向きのよい農民はいないし、またこれほど温和で贈り物の豊富な風土はどこにもないという印象を抱かざるをえなかった」。

「逝きし世の面影」104p


ハリスも日本人の農業に対して讃嘆の念をおぼえた一人である。

彼らをことに瞠目させたのは水田の見事さである。

ハリスは言う。「私は今まで、このような立派な稲、またはこの土地のように良質の米を見たことがない。」、、、

メイランは言う。「日本人の農業技術はきわめて有効で、おそらく最高の程度にある」。

「逝きし世の面影」112p


「彼らは皆よく肥え、身なりもよく、幸福そうである。一見したところ、富者も貧者もない。ーこれが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの他の国におけるよりも多く日本において見出す。生命と財産の安全、全般の人々の質素と満足とは、現在の日本の顕著な姿であるように思われる」。

「逝きし世の面影」121p


この一連のハリスの記述の含意は何だろう。

彼は日本には悲惨な貧は存在せず、民衆は幸せで満足そうだと言っている。

しかしそれとともに彼が言いたいのは、日本人の生活は上は将軍から下は庶民まで質素でシプルだということである。

「逝きし世の面影」122p


カッテンディーケは長崎滞在中、所用があって上海を訪れたが、その感想を正直にこう述べている。

「私はこの支那滞在中でも、ああ日本は聖なる国だと幾たび思ったことか。日本は国も住民も、支那に比べればどんなによいか知れない」。

カッテンディーケだけではない。

中国に比べれば日本は天国だという感想を述べている欧米人は、実は多くて挙げきれないほどなのだ」。

「逝きし世の面影」135p


「これ以上幸せそうな人びとはどこを探しても見つからない。喋り笑いながら彼らは行く。人夫は担いだ荷のバランスをとりながら、鼻歌をうたいつつ進む。遠くでも近くでも、「おはよう」「おはようございます」とか、「さよなら、さよなら」というきれいな挨拶が空気をみたす。

夜なら「おやすみなさい」という挨拶が。

この小さい人びとが街頭でおたがいに交わす深いお辞儀は、優雅さと明白な善意を示していて魅力的だ。一介の人力車夫でさえ、知り合いと出会ったり、客と取りきめをしたりする時は、一流の行儀作法の先生みたいな様子で身をかがめる」。

「逝きし世の面影」173p


「日本には、礼節によって生活をたのしいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。誰もが多かれ少なかれ育ちがよいし、『やかましい』人、すなわち騒々しく無作法だったり、しきりに何か要
求するような人物は、男でも女でもきらわれる。すぐかっとなる人、いつもせかせかしてる人、ドアをばんと叩きつけたり、罵言を吐いたり、ふんぞり返って歩く人は、最も下層の車夫でさえ、母親の背中でからだをぐらぐらさせていた赤ん坊の頃から古風な礼儀を教わり身につけているこの国では、居場所を見つけることができないのである」。

「この国以外世界のどこに、気持よく過すためにこんな共同謀議、人生のつらいことどもを環境の許すかぎり、受け入れやすく品のよいものたらしめようとするこんなにも広汎な合意、洗練された振舞いを万人に定着させ受け入れさせるこんなにもみごとな訓令、言葉と行いの粗野な衝動のかくのごとき普遍的な抑制、毎日の生活のこんな絵のような美しさ、生活を飾るものとしての自然へのかくも生き生きとした愛、美しい工芸品へのこのような心からのよろこび、楽しいことを楽しむ上でのかくのごとき率直さ、子どもへのこんなやさしさ、両親と老人に対するこのような尊重、洗練された趣味と習慣のかくのごとき普及、異邦人に対するかくも丁寧な態度、自分も楽しみひとも楽しませようとする上でのこのような熱心-この国以外のどこにこのようなものが存在するというのか」。

「逝きし世の面影」182p


「日本人の日常生活は芝居じみていて、舞台用の美術・装飾的小道具があふれ、とてもまじめな現実のものとは思えない。

道路も店も芝居のセットのようで、丹念に考え抜かれた場面と細心に配置された人の群れから成っている」。

「逝きし世の面影」208p


古着屋、扇屋、掛け物を売る店、屏風屋、羽織の紐を売る店、ちりめんを売る店、手拭いの店、煙草道具の店、筆だけを売る店、墨だけを売る店、硯箱しか売らない店、そしてもちろん本屋もある。「紙を売る店の多いことといったら」。火鉢だけ売っている店がある。お箸だけの店もある。

提灯屋、行燈屋、薬罐屋、裁縫箱の店、台所用品の店、急須の店、酒屋。
瀬戸物屋はいたるところにある、、、
縄や麻紐を売っている店も多い。
食べ物屋はいつも混んでいる。
だが英国の大都市でのような騒々しさはみられない。

バードの記述でおどろかされるのは、それぞれの店が特定の商品にいちじるしく特化していることだ。
羽織の紐だけ、硯箱だけ売って生計が成り立つというのは、何ということだろう。

「逝きし世の面影」214p


「出島のオランダ会所は、多様な趣味よき形態をもつ磁器や漆器で一杯だった、、、最初に起ったのは一切合切買い占めたいという欲望だった。それほどみんなとても美しかったのだ。鳥獣をかたどる真珠の象眼がほどこされたテーブルーわが国やフランスの高級家具職人なら、その技を盗むためには何ものをもなげうつだろう。

金色の魚や亀が迫真的に浮彫りされている小箪笥。かつて中国が生み出したいかなる品よりも、50倍もの創意と技巧と機知にあふれた、象牙や骨や木でできたすばらしい小逸品。

あまりにデリケートなので触わるのがこわいような磁器。要するに、お菓子屋に入った子どもでさえも、その朝の出島会所でのわれわれほどには、どれにしようかと迷って、菓子から菓子へと走り回りはしなかっただろう」。

「逝きし世の面影」218p


「その日香港に上陸し所用をすませて帰船すると、西洋人と中国人の一団が彼を待ち構えていた。
観光旅行者、骨董品の収集家、科学者などが、彼の持ち帰ったものを一見し購入しようと殺到したのである。自分が月とか未知の天体からやって来たとしても、これほどの興奮は巻き起さなかっただろうと、ホームズはいささか奇妙な気分だった、、、

第二日には好事家、医者、法律家、上流の中国人を含む政府役人などが現れた。彼の収集の残り、すなわち刀剣、小箪笥、寺のひな型、ブロンズ、金貨、磁器、絹などの織物の見本はことごとく売り切れてしまった。

「日本人ってのはかしこい国民にちがいない」というのが大方の意見だった。香港総督は刀剣を買い、中国人たちは小判を買った。小判はホームズに100%の利得を与えた」。

「逝きし世の面影」221p


モースが「田舎の旅には楽しみが多いが、その一つは道路に添う美しい生垣、戸口の前の奇麗に掃かれた歩道、室内にある物がすべて小ざっぱりとしていい趣味をあらわしていること、可愛らしい茶呑茶碗や土瓶急須、炭火を入れる青銅の器、木目の美しい鏡板、奇妙な木の瘤、花を生けるためにくりぬいた木質のきのこ。これ等の美しい品物はすべて、当たり前の百姓家にあるのである」

という時、彼が指摘したかったのは、まさにこの社会の共通感覚だった。

彼は日光旅行の帰途、あるきたならしい町の旅籠屋に立ち寄ったが、その床の間にすっかり感心してしまった。虫喰いの板とか自然木がたくみに組み合わされ、掛け物の字はある古典からとられたものだった。

「逝きし世の面影」230p


古き日本を実見した欧米人の数ある驚きの中で、最大のそれは、日本人民衆が生活にすっかり満足しているという事実の発見だった。

それはいかにも奇妙なことに彼らには思われた。

なぜなら彼らは、日本は将軍の専制政治が行われている国で、民衆は生活のすみずみまでスパイによって監視され、個人の自由は一切存在しないと聞かされていたし、実際に訪問して観察したところでは、それはたしかにこの国の一面であったからである。

オリファントは一方では「日本を支配している異常な制度について調査すればするほど、全体の組織を支えている大原則は、個人の自由の完全な廃止であるということが、いっそう明白になっている」と言いながら、他方では「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているようにみえることは、驚くべき事実である」と書かざるをえなかった。

「逝きし世の面影」262p


もちろん、観察者が一様に指摘する民主性や平等なるものは、近代的観念としての民主主義や平等とそのまま合致するものではない。

しかし、近代的観念からすれば民主的でも平等でもありえないはずの身分制のうちに、まさに民主的と評せざるをえない気風がはぐくまれ、平等としかいいようのない現実が形づくられたことの意味は深刻かつ重大である。

「逝きし世の面影」285p


徳川期の女性はたてまえとしては三従の教えや「女大学」などで縛られ、男に隷従する一面があったかもしれないが、現実は意外に自由で、男性に対しても平等かつ自主的であったようだ。

多くの外国人観察者が東洋諸国にくらべればと留保しながら、日本の女性に一種の自由な雰囲気があるのを認めねばならなかったのは、女性の男性への服従という道学的なたてまえだけでは律しきれぬ現実が存在することに、彼らが否応なく気づかねばならなかったからではないか。

徳川期の女の一生は武家庶民の別を問わず、そう窮屈なものではなく、人と生れて過すに値する一生であったようだ。

「逝きし世の面影」375p


日本について「子どもの楽園」という表現を最初に用いたのはオールコックである。

彼は初めて長崎に上陸したとき、「いたるところで、半身または全身はだかの子供の群れが、つまらぬことでわいわい騒いでいるのに出くわ」してそう感じたのだが、この表現はこののち欧米人訪日者の愛用するところとなった。

事実、日本の市街は子どもであふれていた。
スエンソンによれば、日本の子どもは「少し大きくなると外へ出され、遊び友達にまじって朝から晩まで通りで転げまわっている」のだった。

「逝きし世の面影」388p


モースは言う。

「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい」。

「逝きし世の面影」390p


江戸が当時世界で最大の人口を擁する巨大都市であることは、来日した外国人たちにもよく知られていた。

しかし彼らが実見した江戸は、彼らの都市についての概念からあまりにかけ離れた「都市」であった。

それはヨーロッパの都市と似ていないのはもとより、彼らの知るアジアの都市にも似ていなかった。

つまり江戸は、彼らの基準からすればあまりに自然に浸透されていて、都市であると同時に田園であるような不思議な存在だった。ひと口でいえば、それは巨大な村だったのである。

「逝きし世の面影」439p


江戸は、けっして「大きな村」なのではなかった。

それはあくまで、ユーニークな田園都市だった。

田園化された都市であると同時に、都市化された田園だった。

これは当時、少なくともヨーロッパにも中国にも、あるいはイスラム圏にも存在しない独特な都市のコンセプトだった。

後年、近代化された日本人は、東京を「大きな村」ないし村の集合体として恥じるようになるが、幕末に来訪した欧米人はかえって、この都市コンセプトのユーニークさを正確に認識し、感動をかくさなかったのである。

「逝きし世の面影」448p


観察者たちの眼には、しかしたんに日本の自然の美しさや、自然と融和した江戸の魅力だけが映ったのではなかった。

その美しさもさることながら、彼らは、当時の日本人の自然と親和する暮らしぶりにおどろきと讃嘆を禁じえなかったのである。

「日本人は何と自然を熱愛しているのだろう。何と自然の美を利用することをよく知っているのだろう。安楽で静かで幸福な生活、大それた欲望を持たず、競争もせず、穏やかな感覚と慎しやかな物質的満足感に満ちた生活を何と上手に組み立てることを知っているのだろう」という感嘆はギメだけのものではなかった。

彼らのある者は日本の田園の名物である茶屋に、自然との親和の好見本を見出した。

「逝きし世の面影」450p


江戸には、大名屋敷に付随する庭園だけでも千を数え、そのうち後楽園、六義園クラスのものが三百あったという。
それに旗本屋敷や寺社のそれを加えれば、江戸の庭園の数は数千にのぼっただろう。

「逝きし世の面影」462p


欧米人が讃美したいわゆる日本的景観は、深山幽谷のそれを除いて、日本人の自然との交互作用、つまりはその暮らしのありかたが形成したものだ。

ましてや景観の一部としての屋根舟や帆掛け舟、船頭の鉢巻、清らかな川原、そして茅葺屋根やその上に咲くいちはつに至ってはいうまでもない。

つまり日本的な自然美というものは、地形的な景観としてもひとつの文明の産物であるのみならず、自然が四季の景物として意識のなかで馴致されたという意味でも、文明が構築したコスモスだったのである。

そして徳川後期の日本人は、そのコスモスのなかで生の充溢を味わい、宇宙的な時の循環を個人の生のうちに内部化した。

そして、自然に対して意識を開き、万物との照応を自覚することによって生れた生の充溢は、社会の次元においても、人びとのあいだにつよい親和と共感の感情を育てたのである。

そしてその親和と共感は、たんに人間どうしの間にとどまるものではなかった。

それは生きとし生けるものに対して拡張されたのである。

「逝きし世の面影」474p


この時代の日本人は死や災害を、今日のわれわれからすれば怪しからぬと見えるほど平然と受け止め、それを茶化すことさえできる人びとだった。

「逝きし世の面影」509p


私の関心は日本論や日本人論にはない。

ましてや日本人のアイデンティティなどに、私は興味はない。

私の関心は近代が滅ぼしたある文明の様態にあり、その個性にある。

この視覚の差異は私にとって重要だ。

そしてその個性的な様態を示すひとつの文明が、私自身の属する近代の前提であるゆえに、それは私の想起の対象となるのだ。

「逝きし世の面影」516p


幕末に異邦人たちが目撃した徳川後期文明は、ひとつの完成の域に達した文明だった。

それはその成員の親和と幸福感、あたえられた生を無欲に楽しむ気楽さと諦念、自然環境と日月の運行を年中行事として生活化する仕組みにおいて、異邦人を讃嘆へと誘わずにはいない文明であった。

しかしそれは滅びなければならぬ文明であった。

「逝きし世の面影」568p


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