高所得国は、人々の生活を向上させるために、さらなる成長を必要としない。
必要なのは、資本蓄積のためではなく人々の幸福のために、経済を組み立て直すことだ。
それに気づけば、わたしたちははるかに自由に、かつ合理的に、考えられるようになる。
地球温暖化を1・5℃以下に保ち、生態系の破壊を逆行させるための唯一実行可能な方法は、高所得国が過剰な資源採取とエネルギー利用を減速させることだと、科学者たちははっきり述べている。
資源の消費を減らせば、生態系にかかる圧力が減り、生命の網は、つながりを取り戻すチャンスを得る。
併せて、エネルギーの消費を減らせば、より簡単かつ迅速に、つまり数十年ではなく数年ほどで、クリーンエネルギーに移行でき、連鎖反応が始まる危険なティッピングポイントに至らずにすむだろう。
どうすればそうできるだろうか。
ポスト成長経済では、その一部は効率の向上によって成し遂げられるだろう。
しかし、必要性の低い生産形態を縮小することも不可欠だ。
これが「脱成長」と呼ばれる概念で、経済と生物界のバランスを取り戻すために、安全・公正・公平な方法で、エネルギーと資源の過剰消費を計画的に削減することを意味する。
脱成長の素晴らしい点は、経済を成長させないまま、貧困を終わらせ、人々をより幸福にし、すべての人に良い生活を保障できることだ。
それこそが脱成長の核心である。
では、実際には、どうすればよいのだろう。
実に簡単なことだ。
現在の経済学では、必要であってもなくても経済の全部門は常に成長しなければならないという考え方が支配的だ。
そのような経済運営は、良い時代にあっても非合理的であり、生態系が緊急事態に陥っている時代にあっては明らかに危険だ。
その考え方から脱却し、成長させるべき部門(クリーンエネルギー、公的医療、公共事業、環境再生型農業など)と、必要性が低いか、生態系を破壊しているので根本的に縮小すべき部門(化石燃料、プライベートジェット、武器、SUV車など)を見極めるべきだ。
また、人間の必要を満たすためではなく、利益を最大化するために設計された生産様式を縮小することもできる。
製品の寿命をあえて短くする計画的陳腐化や、わたしたちの感情を操作し、現状に不満を抱かせる広告戦略などがその例だ。
過剰な生産を減速し、不要な労働から人々を解放すれば、週間労働時間を短縮しながら完全雇用を維持し、所得と富を公平に分配して、国民皆保険制度、教育、手頃な価格の住宅といった重要な公共サービスへのアクセスを拡大できる。
第5章で見ていくが、これらの方策が人々の健康と福利に強いプラスの影響を与えることは繰り返し証明されてきた。
それらは社会の繁栄のカギであり、経済成長と社会の進歩を切り離すことを可能にする。
その証拠は実に啓発的だ。
ここで強調しておきたいのは、脱成長はGDPを減らすことではないということだ。
GDPというダイヤルを逆方向に回せばいいというわけではない。
当然ながら、不必要な生産を減らし、公共サービスを非商品化すれば、GDPの成長はスローダウンしたり止まったり、ことによるとマイナスに転じたりするだろう。
だが、そうなっても問題はない。
通常、マイナス成長は不況を招くが、不況とは、成長に依存する経済が成長を止めた時に起きるものだ。
不況は無秩序で悲惨だ。
しかし、今わたしが訴えているのは根本的な変革である。
経済をこれまでとはまったく異なる経済へー成長を必要としない経済へーシフトすることなのだ。
それを実現するには、債務システムから銀行システムまでのすべてを見直し、人々、企業、国家、さらにはイノベーションそのものを、成長に取り憑かれた息苦しい状態から解放し、より高い次元の目標に取り組めるようにしなければならない。
実践的にこの方向へ進んでいくと、新たなエキサイティングな可能性が見えてくる。
際限のない資本の蓄積ではなく、人間の繁栄を中心に組織された経済、ポスト資本主義経済が誕生する。より公正で、公平で、思いやりのある経済だ、、、
今、わたしたちは岐路に立っている。
科学を無視して旧来の世界観を維持するか、それとも世界観を根底から変えるか。
賭け金はダーウィンの時代よりはるかに高額だ。
科学から目を背ける時間の余裕はない。
今回の選択には、わたしたちの命がかかっている。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」36p
構造調整計画はグローバル・サウスの経済を一変させた。
サウスの政府は国民の福祉と国の経済的独立をあきらめ、資本蓄積にとって最善の環境を整えることを強制された。
これは成長の名のもとに行われたが、結果はサウスにとって壊滅的だった。
ネオリベラル政策の過剰な要求は20年に及ぶ危機をもたらし、貧困、格差、失業が増加した。
1980年代と1990年代の20年間、サウスの所得増加率は平均でわずか0・7%だった。
しかし資本家にとってこの計画は大成功を収めた。
多国籍企業は記録的な利益を上げ、1%の最富裕層の所得は急上昇した。
西側諸国の成長率は回復した。
それこそが、構造調整と呼ばれる解決策の真の目的だった。
しかし、そのためにサウスのどこでも人命が犠牲になった。
この介入のせいで、過去数十年間で世界の不平等はかなり広がった。
現在、グローバル・ノースとサウスの1人当たりの実質国民所得の差は、植民地時代末期の4倍になっている。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」103p
成長は経済と政治に深く組み込まれており、どちらのシステムも成長なしには存続し得ないほどだ。
成長が止まれば、企業は倒産し、政府は社会サービスの資金を失い、人々は失業し、貧困が拡大し、国は政治的に脆弱になる。
資本主義のもとでは、成長は社会組織の単なるオプション機能ではない。
全員を人質にした要求なのだ。
経済が成長しなければ、すべてが崩壊する。
わたしたちは成長という要求に拘束されている。
世界中の政府が自国の総力をあげて蓄積のトレッドミルを回し続けているのも驚くには値しない。
これらすべてが、1945年以降、GDPの成長を異常なまでに加速させた。
生態学的観点から見ると、ここから物事は間違った方向に進み始める。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」106p
では、どうすれば出生率を低下させられるだろう。
まず子供の健康に投資し、子供が無事に成長することを親が確信できるようにする。
次に、女性の健康と生殖の権利に投資し、女性が自分の身体と子供の数をコントロールできるようにする。
加えて、女子教育に投資し、女性の選択肢と機会を広げ、すべての人の経済的安定を確保する。
これらの政策を実施すれば、人口増加の勢いは急速にー1世代のうちにさえー落ちる。
ジェンダー平等と経済的平等は、エコロジカルな経済のどのビジョンにおいても中心となるべきだ。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」117p
通常「クリーンエネルギー」という言葉から連想されるのは、暖かな陽光や爽やかな風といった幸福で無垢なイメージだ。
太陽光や風は確かにクリーンだが、それらを捕らえるためのインフラはそうではない。
クリーンと呼ぶにはかけ離れている。
クリーンエネルギーへの移行は莫大な量の金属と希土類(レアアース)を必要とし、それらの採取は生態系と社会にさらなる負荷をかける。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」146p
良い人生に必要なものとは何か?
成長主義がわたしたちの政治的想像力を支配していることを、どう説明すればよいだろう。
国がどれほど豊かになっても、その国の経済は、コストを顧みず無限に成長し続けなければならない、とわたしたちは教わってきた。
経済学者や政策立案者は、生態系の崩壊を示す数多くの証拠を目の当たりにしながら、この姿勢を貫いている。
説明を求められると、ただこう答える。
「過去数世紀にわたって見られた福祉と寿命の脅威的な向上は成長のおかげだ。人々の生活を向上させ続けるには、成長し続ける必要がある。成長を放棄すると、人類の進歩そのものを放棄することになる」
実に説得力のある主張で、明らかに正しいように思える。
現在の人々の暮らしは確かに昔より良くなった。
それを成長のおかげと見なすのもうなずける。
しかし現在、科学者と歴史家は、この筋書きを疑っている。
驚くべきことに、この主張は社会に深く根づいているにもかかわらず、実証的な根拠は弱いことがわかったのだ。
成長と人類進歩との関係は、以前考えられていたほど明白ではなかった。
重要なのは、成長そのものではなく、わたしたちが何を生産しているか、人々が必要なものやサービスにアクセスできているか、所得がどのように分配されているかということなのだ。
ある段階を過ぎると、人間の福利を向上させるためにGDPを増やす必要はまったくなくなる。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界174p
資本主義の拡大は、人為的希少性の創出に依存した。
資本家はコモンズー土地、森林、牧草地、その他、人々が生きるために依存していた資源ーを囲い込み、自給自足経済を破壊して、人々を労働市場に追いやった。
飢餓の脅威は、生産性を高めるための武器として使われた。
GDPは成長していても、人為的希少性のせいで庶民の生活と福利はしばしば崩壊した。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界177p
コスタリカは、おそらく最も驚くべき例だろう、、、
所得がアメリカより80%低いにもかかわらず、平均寿命では勝っている。
実際、コスタリカは、環境への負荷を最小限に抑えながら高水準の福利を実現しているという点で、世界で最も生態系に配慮した経済の1つと見なされている。
その経時的な推移を見ると、この話はいっそう魅力的に感じられる。
コスタリカは1980年代に平均寿命を目覚ましく延ばし、アメリカに追いつき、追い越した。
その時期、国民1人当たりのGDPはごくわずか(アメリカの7分の1)であったばかりか、まったく成長しなかった。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」181p
国連のデータによると、どの国も1人当たりわずか8000ドル(購買力平価〈PPP〉換算)で平均寿命を大幅に延ばし、8700ドルで教育指数を非常に高いレベルに上げることができる。
各国は、1人当たり1万ドル以下で、医療と教育だけでなく重要な社会指標ー雇用、栄養状態、社会的支援、民主主義、生活満足度などーを高いレベルに上げながら、プラネタリー・バウンダリー以下か、それに近いところにとどまることができるのだ。
これらの金額の注目に値する点は、1人当たりGDP(PPPベース)の世界平均値、1万7600ドルを大幅に下回っていることだ。
つまり理論上は、人間の幸福のためになるものを生産し、公共財に投資し、所得と機会をより公正に分配するだけで、現在より少ないGDPで世界のすべての人々のために、すべての社会目標を達成できるのである。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」182p
わたしたちが立ち向かわなければならない強力な主張が、もう一つある。
それは次のようなものだー成長は人類の進歩にとってだけでなく、技術的な進歩にとっても欠かせない。
なぜなら成長はエネルギー転換のための資金を集める唯一の方法であり、経済をより効率化するためのイノベーションをもたらす唯一の方法であるからだ。
確かに、気候危機を解決するにはイノベーションが欠かせない。
より性能のよいソーラーパネル、風力タービン、バッテリーが必要であり、世界中の化石燃料インフラを解体し、クリーンなものに置き換える方法を見出さなくてはならない。
これは大きな課題だ。
しかし、良い知らせがある。
そのために成長は必要とされないのだ。
まず、これらの目標を達成するには経済全体の成長が必要だ、という仮定を裏づける証拠は存在しない、、、
イノベーションそのものについて言えば、日々の生活を一新させるような重要なイノベーションに資金提供したのは主に、成長志向の企業ではなく公的機関であったことを忘れてはならない。
配管からインターネット、ワクチン、マイクロチップ、スマートフォンに至るまで、すべて公的資金による研究から生まれた。
イノベーションを起こすために必要なのは経済全体の成長ではない。
特定のイノベーションを起こしたいのであれば、経済全体を無差別に成長させて、結果的にイノベーションが起きることを期待するよりも、それらに直接投資するか、対象を絞った政策によって投資を奨励するほうが理にかなっている。
例えば、鉄道の効率を高めるために、プラスチック産業、材木産業、広告産業を成長させる必要があるだろうか?
きれいなものを得るために、汚れたものを成長させることに意味があるだろうか?
わたしたちはもっと賢くなるべきだ。
何度も繰り返すが、成長は必要だという支配的な信念は正当性に欠けることが判明している。
生態系の安定を犠牲にしてでも成長し続けることを主張する人々は、本当は必要でさえないもののために、文字通りすべてを危険にさらそうとしているのだ。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」203p
もっとも、状況は変わり始めている。
世界有数の経済学者の間でも、成長主義はイデオロギーとしての力を失い始めている、、、
突然のブレイクだ。
しかもそれは富裕国だけの話ではない。
現在、世界中のNGOが、「ウェルビーイング・エコノミー」(幸福経済)の重要性を語っている。
ブータン、コスタリカ、エクアドル、ボリビアはすべてこの方向に舵を切った。
2013年、中国の国家主席、習近平は、長年の方針を覆し、GDPを自国の進歩の主な指標にしないことを発表した。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」205p
大量消費を止める5つの非常ブレーキ
(1)計画的陳腐化を終わらせる
(2)広告を減らす
(3)所有権から使用権へ移行する
(4)食品廃棄を終わらせる、、、毎年、世界で生産される食品の最大50%が廃棄されている、、、
(5)生態系を破壊する産業を縮小する、、、牛肉産業、軍事産業、プライベートジェット産業、使い捨てのプラスチック製品、、、マック・マンション[粗製濫造された豪邸]などだ(アメリカでは、1970年代から現代までに、家のサイズが2倍になった)、、、
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」211p
計画的陳腐化、、、この手法が最初に実行されたのは1920年代。
アメリカのゼネラル・エレクトリック社を中心とする電球メーカーがカルテルを組み、平均で約2500時間だった白熱電球の寿命を1000時間以下に短縮したのだ。
効果は抜群で、売上と利益は急増した。
このアイディアはたちまち他の産業に広がり、現在、計画的陳腐化は資本主義的生産の特徴として広く普及している。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」212p
資本主義の「転覆」や「廃止」について語る時、わたしたちは、その後どうなるのか、という不安に囚われる。
地球の死を目前にして、現行の経済システムを攻撃するのは簡単だが、改革を求める人々が、新たな社会がどのようなものになるかを述べることはほとんどない。
そのため、未来は恐ろしく、予測不能なものに思える。
資本主義が消えた後の空洞をどのような悪夢が埋めることになるのか、いったい誰にわかるだろう。
しかし、経済システムを成長要求から解放する仕組みに着目すると、ポスト資本主義経済がどのようなものであるかが見えてくる。
それはまったくもって怖いものではない。
ソビエト連邦の指揮管理システムの失敗を繰り返すのではなく、自主的に貧困になって原始的な生活に戻るわけでもない。
それどころか、いくつかの重要な点で馴染みがある。
と言うのも、わたしたちが通常、経済と見なすもの(あるいは、経済はそうあるべきだと考えるもの)に似ているからだ。
すなわち、ポスト資本主義経済では、人々は有益な物やサービスを生産し販売する。
合理的かつ十分な情報を得た上で、何を買うかを決断できる。
労働に見合う報酬を得ることができる。
無駄を最小限にしながら人間としてのニーズを満たすことができる。
必要とする人々に資金が届く。
イノベーションによって高品質で長持ちする製品が作られ、生態系への負荷が減る。
労働時間は短縮され、人々はより幸福になる。
そして、基盤となっている生態系の健全さを無視するのではなく、大切にする。
新しい経済はこのように馴染みのあるものだが、既存の経済とは根本的に異なり、その軸になっているのは、資本主義が一番の目的としてきた「蓄積」ではない。
はっきり言って、このいずれも、容易には実現できないだろう。
容易だと考えるのは甘すぎる。
加えて、わたしたちがまだ完全には答えを出せていない難問がいくつも残っている。
誰一人として、ポスト資本主義経済のための簡単なレシピを提示することはできない。
結局、それは集団のプロジェクトとして進めていくべきなのだ。
ここでわたしにできるのは、いくつかの可能性を示し、それらが人々の想像力を刺激することを祈るだけだ。
どうやって実現するかについては、社会正義や環境正義を求める歴史上のあらゆる闘争と同じく、ムーブメントが必要とされるだろう。
すでにそれはいくらか出現している。
学校の気候変動ストライキ、環境保護団体エクスティンクション・レベリオン、ビア・カンペシーナ〔中小農業者の国際組織。小規模で持続可能な農業を目指す〕、スタンディング・ロック〔アメリカ先住民による水源保護活動〕等々。
人々はより良い世界を切望するだけでなく、その実現のために結集している。
こうしたムーブメントは自然に生じるわけではない。
それを起こすには地域社会の組織化というハードワークが求められる。
また、環境保護運動は、現職の政治家に軌道修正を要求できるほどの政治的力を獲得するために、労働者階級や先住民族と連携する必要があるだろう。
わたしは政治戦略家ではないが、希望的観測を一つ述べておきたい。
必要とされる転換を遂げるには、全体主義的な政府が上から強制するしかないと考える人々もいる。
しかし、この思い込みは間違っている。真実はまったく逆だ。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」244p
問題は「人間の本性」ではない。
一部の人が自分の利益のために集団の未来を破壊することを許している政治システムが問題なのだ、、、
なぜこうなったのだろう?、、、
それは、わたしたちの「民主主義」が少しも民主的でないからだ、、、
今やエリートが民主主義システムを掌握しているのだ、、、
アメリカは民主主義というより金権主義に近い、、、
世界で最も豊かな経済大国が、世界貿易システムのルールに関する重要な事柄をほぼ思い通りに決定する一方、生態系崩壊による損失が最も大きい貧しい国々の発言は常に無視される。
現在、わたしたちが生態系の危機に直面している理由の一つは、政治システムが完全に腐敗していることにある。
将来の世代のために地球の生態系を維持したいという大多数の思いは、嬉々としてすべてを使い尽くそうとする少数のエリートによって踏みにじられている。
より環境に配慮する経済を勝ち取りたいのであれば、民主主義を可能な限り拡大しなければならない。
それは政治から、ビックマネーを排除することを意味する。
急進的なメディア改革、厳格な選挙資金法の策定、企業人格(法人格)の無効化、独占企業の解体、協同組合への移行、企業役員への労働者の登用、株主投票の民主化、グローバル・ガバナンスの民主化ー以上のことを行い、資源をコモンズとして管理するのだ。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」248p
長い間、わたしたちは資本主義と民主主義はセットになっていると教えられてきた。
しかし実際には、両者はおそらく両立しない。
資本主義は、生物界を犠牲にしても永続的な成長に執着し、多くの人が重視する持続可能性に背を向ける。
この問題について発言の機会を与えられたら、大多数の人は、成長要求とは逆の、定常経済の原理に基づく経済を選択するだろう。
言い換えれば、資本主義には反民主主義的な傾向があり、民主主義には反資本主義的な傾向があるのだ.
このことには興味を惹かれる。
というのも、両者のルーツの少なくとも一部は啓蒙思想にあるからだ。
啓蒙思想は一方では「人間本来の理性の自立」を促した。
すなわち、伝統、権威者、神から授かったとされる知恵に疑問を抱くことを奨励したのだ。
これは民主主義の核心になっている。
その一方で、ベーコンやデカルトといった啓蒙思想家の二元論哲学は、自然を征服することを賛美し、それが資本主義拡大の基本的ロジックになった。
皮肉なことに、啓蒙運動のこの二つの目的は両立しない。
わたしたちは資本主義とそれによる自然の征服に疑問を抱くことを許されない。
そうすることは、一種の異端を見なされる。
言い換えれば、わたしたちは批判的で自立した理性を信じることを奨励されるが、資本主義を疑問視することは許されないのだ。
生態系崩壊の時代にあっては、この障壁を打ち破らなければならない。
資本主義を理性によって精査する必要がある。
ポスト資本主義経済への旅は、この最も基本的な民主主義的行動から始まる。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」251p
アニミズムは、その考え方に慣れていない人々には、最初は少し奇妙で、突飛とさえ思えるかもしれない。
それも当然だろう。
結局のところ、わたしたちは、ルネ・デカルトと啓蒙主義を形づくった二元論哲学の後継者であり、啓蒙主義の前提はアニミズムのそれとはまったく逆なのだ。
前述した通り、デカルトは神と創造物は根本的に異なるという古い一神教の考えからスタートし、それを一歩推し進めた。
デカルトは創造物を二つに分けた。
一方は精神(あるいは魂)で、もう一方は単なる物質だ。
精神は特別で、神の一部であり、通常の物理法則や数学では表現できない。
この世のものとは思えない神聖な存在である。
そして人間は、精神と魂を持つという点で、あらゆる生物の中で特別な存在であり、神との特別なつながりを持っている。
それ以外の創造物はー人間の体も含めー不活発で、思考力のない物質に過ぎない。
それが「自然」である。
デカルトの考えに経験的証拠はなかったが、彼の思想は1600年代のヨーロッパのエリートの間で人気を集めた。
なぜならそれは教会の権力を強化しただけでなく、資本家による労働と自然からの搾取を正当化し、植民地化に道徳的許可を与えたからだ。
「理性」という概念自体、二元論の前提に基づくようになった。
「人間だけが魂を持つ。なぜなら人間だけが理性を持つからだ。理性の第1段階は、わたしたちーわたしたちの精神ーが身体とは別のものであり、世界の他の部分とも別のものであることを理解することだ」とデカルトは論じた。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」267p
樹木、菌類、人間、細菌の驚くべき相互依存関係は、氷山の一角にすぎない。
生態学者は、そのような関係を文字通り至る所に発見している。
地球上のどの生態系においても、種は互いに豊かになる形で相互作用している。
捕食者と被捕食者との関係さえ見直されるようになった。
かつてそれは、支配と略奪の関係を捉えられていた。
「食うか食われるか」「ジャングルの掟」「殺すか殺されるか」というように。
ライオンの狩りの映像を見ればわかるように、捕食の瞬間をクローズアップすると、それはかなり残酷だ。
しかし、ズームアウトして視野を広げていくと、別の何かが起きていることがわかる。
捕食がバランスと平衡を支えていることが見えてくるのだ。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」281p
幸いなことに、別の道がある。
バージニアからシリアに至るまで、世界中の勇敢な農家が、「リジェネラティブ農業」(環境再生型農業)と呼ばれる、よりホリスティックな方法を試している。
それは、複数の作物種を一緒に植えることで回復力のある生態系を築く一方、堆肥、有機肥料、輪作によって土壌に生物と肥沃さを回復させようとするものだ。
この方法を導入した地域では、収穫高が増え、ミミズが戻り、昆虫の数や鳥の種の多様性も回復した、、、
互恵関係とはこのようなものだ。
受け取ったのと同じだけお返しをすれば、生態系の健全さは大幅に回復する。
生命が甦るのだ。
再生型のアプローチは農業に限ったものではない。
林業でも漁業でも展開され、多くの場合、先住民族やグルーバル・サウスの小規模農家が長年用いてきた技術を利用している。
しかし、巨大なアグリビジネスはこのアプローチをなかなか採用しようとしない、、、
なぜなら、時間と労力がかかるからだ。
また、地域の生態系に関する詳細な知識も必要とされる。
何十種類もの種の性質や行動、および相互作用を理解しなければならない。
さらには、思いやり(ケア)が求められる。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」286p
この本を書き始めた時、わたしは、脱成長を中心的な枠組みとすることに不安を覚えた。
結局、それは最初の一歩にすぎないからだ。
しかし、人類が辿ってきた旅を振り返るうちに、そうではないと思えてきた。
脱成長は、この困難な問題にアプローチする道筋を示している。
脱成長が意味するのは、土地と人々、さらにはわたしたちの心を脱植民地化することだ。
また、コモンズの脱・囲い込み、公共財の脱・商品化、労働と生活の脱・強化、人間と自然の脱・モノ化、生態系危機の脱・激化をそれは意味する。
脱成長は、より少なく取るというプロセスから始まるが、最終的には、あらゆる可能性の扉を開くことになる。
わたしたちを、希少性から豊富さへ、搾取から再生へ、支配から互恵へ、孤独と分断から生命あふれる世界とのつながりへと進ませるのだ。
結局のところ、わたしたちが「経済」と呼ぶものは、人間どうしの、そして他の生物界との、物質的な関係である。
その関係をどのようなものにしたいか、と自問しなければならない。
支配と搾取の関係にしたいだろうか。
それとも、互恵と思いやりに満ちたものにしたいだろうか?
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」290p
わたしたちはここで何をしているのか?
どこへ行こうとしているのか?
それは何のためなのか?
人間が存在する目的は何なのか?
成長主義は、わたしたちが立ち止まってこれらの疑問について考えることを阻む。
どのような社会を実現したいのかを考えることを阻む。
実のところ成長の追求は、考えること自体を阻むのだ。
わたしたちは我を忘れ、あくせく働き、深く考えようとせず、自分が何をしているか、周囲で何が起きているかに気づかず、自分が何を、そして誰を犠牲にしているかに気づかない。
脱成長という考えは、わたしたちを夢から目覚めさせる。
詩人ルーミーはこう記している。
「座って、じっとして、耳を傾けなさい。あなたは酔っていて、わたしたちは屋根の端っこにいるのだから」、、、
疑問を持つことは、何より強力である。
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」292p