在宅での看取り~単身者のケース~

(事例掲載にあたり、本人から同意を得ていることはもちろん、個人を特定されないように、一部加工を加えていることを、予め、ご了承ください)


とある都内のアパートの一室で、肝臓がん末期の70代の男性患者Aさんが、静かに息を引き取った。

傍で看取ったのは以前から「最期はあんたに看取ってもらい、あんたにお経をあげて欲しい」と頼まれていた僧侶である私と、定期的に訪問してくれる地元の訪問看護師のふたり。

看護師がAさんの死亡を確認するや否や、すぐにかかりつけ医に電話をし、医師に来てもらい、死亡診断書を書いてもらう手続きに入った。

筆者は医師が死亡確認に来るまでの間、静かに故人と向き合い、三具足を用意し、蝋燭と線香に火をつけ、正座して短い枕経を読み始めた。

ここで、「何故、Aさんには親族である配偶者や子どもが傍にいないのだろうか?」そう疑問に思ったあなたは鋭い感覚をお持ちである。

十数年前に流行語にもなった「無縁社会」という言葉をご存じだろうか?

都心部を中心に、ひとり誰にも看取られず、孤独の中で迎える死が多発している。

2010年のNHKの調査によると「無縁死」と呼ばれる死は全国で年間32,000件にも達しているという。

Aさんの場合は、臨終時にひとりではなかったから無縁死ではない。

しかし、私と訪問看護師が関わっていなかったら、無縁死として扱われた可能性が極めて高いのである。

在宅での看取り~単身者のケース~

Aさんは、若いころ家庭を全く試みない人だった。

銀行員という仕事にやりがいを感じていたというAさんは、高校卒業後、都市銀行に就職。

がむしゃらに働いた。時代は高度経済成長の時代。

早朝から終電の時間帯まで、毎日働き続けた。

休日も取引先との接待で、妻や子供と会話をする時間すら持てなかった。

そして、気が付けば40代後半。ついに妻と子供に逃げられた。

その後、仕事のストレスと過労が原因で体調を崩した。

銀行はAさんに早期退職を勧めた。Aさんは50代半ばで早期退職した。

その後、Aさんは誰とも話をせず、ひとり、部屋に閉じこもり、酒に溺れるようになった。

たまたまAさんと同じマンションで隣に住んでいた民生委員がAさんのことを心配してくれたのがせめてもの救いであった。

2010年10月に放送されたNHKの番組「どうする無縁社会~日本のこれから~」にゲストとして出演していた筆者にAさんは、番組放送後、ネットで筆者の連絡先を調べ、相談の電話をかけてきたのである。

その電話相談を受けたことがきっかけで、私とその民生委員は共に、Aさんと関わることになったのである。

私が関わりだしてしばらくすると、Aさんは肝臓がんであることが判明した。

残された人生はそう長くはない。

Aさんが抱える肉体的な痛み・症状の緩和のことは、医師や看護師などの医療従事者に聞けば良い。

入院しなくても、在宅でも往診してくれる医師も増えてきている。

訪問看護や訪問介護を利用すれば、在宅でも充分な「おひとりさま」の看取りは可能である。

しかし、Aさんには、肉体的な痛みと同時に、所有するマンションの処分、自らの葬儀・墓、遺産の分割、遺品整理など、本来、家族が中心となって行うべき問題を一人で対処しなければならない痛みを抱えていたのである。

さて、困まった。ここで問題が発生したのである。

現在の社会制度の中では、医療は医療、司法は司法、福祉は福祉、葬儀は葬儀と縦割り制度となっている。

医師に薬のことは分かっても、遺言や相続のことは分からない。

弁護士に看取りのことを聞いても「それは専門外だ」となる。

しかし、今から信頼できる弁護士や税理士を一から探し、自らの人生の終焉活動をひとりで行うことが果たして可能だろうか?

人間の「死」の周辺には、様々な問題がある。

介護・看取り・葬儀・墓といった問題は言うまでもなく、相続・遺言・登記等の法律的な手続きも必要となってくる。


家族の支援が受けられない単身者・おひとりさまであっても、その方の「死」の周辺の様々なコンテンツを、包括的・ワンストップで対応できる支援できる団体が必要だ

私が仏教系ホスピスに宗教者(チャプレン)として就職した勤務先の病棟は、仏教を基盤とした緩和ケア病棟だった。

そこには誰でも自由に入れる仏間があり、そこで朝夕の勤行(お経を読むこと)、患者さんが亡くなり、ご遺族が希望すれば真夜中でも駆けつけ、短いお経を読み上げ、スタッフが患者さんとの思い出を語り合う場=お別れ会の司会執行役が主な仕事であった。

お付き合いのあるお寺(菩提寺)が無いケースも多々あり、その場合は「あんたに葬儀をやってほしい」という依頼もしばしばあった。

その他にも患者さんやご家族の話を聞かせていただき、医療従事者とのパイプ役になるコーディネータ役をしたり、必要に応じて臨床にも出来る範囲で関わってきた。

そのような中、私は今まで在宅・緩和ケア病棟(ホスピス)にて数百名の末期ガン患者さんを看取ってきたが、医療・司法・福祉・介護・葬儀などの各分野を横断的に繋いでいくネットワークのが整っていないために、あちこちの部署で相談者がたらい回しにされるという現状を嫌というほど見てきた。

例えば病院のソーシャルワーカーが、入院している患者の家族から葬儀の相談があった場合「私は葬儀の相談は専門ではないですけど、葬儀の専門家をご紹介できます」という人生の終焉活動に関する個別の相談をコーディネーターとして専門家に「繋ぐ」役割を担う人材を養成することが出来ていれば現実的な対応は出来る。

しかし、現実はどうであろうか?

「お役所仕事」と公務員を揶揄する言葉や公務員バッシングが叫ばれる昨今であるが、様々な現場を見てきた私の経験に言わせれば、民間も充分に縦割りであり、医療・福祉・司法等の包括的な支援を必要とする「死」の周辺分野でも、ワンストップでの対応は難しいというのが現実だ

医師・看護師・弁護士・税理士・僧侶・葬儀社・石材店など、人の死に関して関わる職種がお互いの職種を超えて連携しなければ、ひとりの人間の人生の終焉活動はうまくいかない。

まして「無縁社会」と呼ばれる状況の中、家族がいても家族が頼りにならないケースもある

隣近所の付き合いもなければ、会社との縁も切れてしまえば、誰だって独り孤独の中で死を迎えるのである。

その結果、死後、数週間も経って発見され、蛆や蠅が遺体に群がり、異臭が部屋に充満し、部屋そのものに人が住めないと言うことになれば、死人が出た部屋の保証人は損害賠償請求を受けることになる。

事実、私はそのようなケースを散々見てきた。

日本は今後、ますます少子高齢化社会が進む。

必然的に、頼れる子どもが減ることによって、自らの終焉は、自らの手でけじめをつけないと、残された周囲の者たちに多大な迷惑をかけることになるのだ。

亡くなったスティーブ・ジョブズ氏は「死は人生で最高の発明である」「毎日を人生最後の日だと思って生きてみよう、いつか本当にそうなる日が来る」「How to live before you die. 死ぬ前にどう生きるか!」と言われたそうだ。

死の臨床経験を通じて、私は死に向かうまでの過程には、個人差があると私は感じている。

人が生まれ、死んで逝くまでの時間的長さはそれぞれ異なる。

物心つく前に、亡くなって逝かれる子供もたくさんいる。

私が今でもはっきりと死に顔を覚えている方々は、死という現実をしっかり見据え、死から逃げずに立ち向かっていった人の姿。

死に立ち向かっていった生き様は、残された者に対して「生きるとはどういうことか?」という事を教えてくれた。

人の死は、多かれ少なかれ、必ず周囲の者に影響を与える。

死に至る過程、そして死に様は、その人がどういうふうに生きてきたのか?という生き方の問題である。

もちろん、100人いれば100通りの死に対する考え方があっていい。

しかしながら、あなたがこの世を去る時に、周囲の人たちが「あんな生き方=逝き方がしたい」と感じるのか、それとも「あんな生き方=逝き方は嫌だ」と感じるのか?

それはあなたの今の生き様にかかっているのではないか?と、日々、死の臨床にいる者としては感じている。

労働者協同組合「結の会(ワーカーズ葬祭&後見サポーター)」は、そういった「単身世帯」の「死」の前後にも、ワンストップサービスで対応できる団体だ。

「結の会」の支援が必要ならば、遠慮なく連絡してほしい。

労働者協同組合 ワーカーズ葬祭&後見サポートセンター 結の会 | ~生き方から終い方まで~ 結の会が、あらゆる不安や悩みに寄り添います (yuinokai-roukyou.com)

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