私たちはみんな「亜インテリ」なのかもしれない
丸山眞男によれば、「亜インテリ」とは「いっぱしインテリのつもり」だが、「耳学問」なのであやふやな知識しか持たない。
政治や経済に「オピニオン」を持つが、知識や生活レベルは「大衆」とあまり変わらない。
むしろ、「大衆」とさほど変わらないからこそ、「心理的にヨリよく大衆をキャッチ出来る」。
「町内会」や「青年団」といったコミュニティに積極的に参加して「国民の声」をつくり出す人々である。
もちろん、「インテリ」と「亜インテリ」という丸山の区別に疑問はないわけではない。
だが、ここで注目したいのは、「インテリ」気取りで「耳学問」の「受け売り」の知識をひけらかし、「大衆」に大きな影響力を持つ「大衆」=「亜インテリ」である、、、
「亜インテリ」への批判は共感するが、発想の転換が必要だと思う。
「人間本性」から考えれば、私たちはみんな「亜インテリ」である、と。
認知科学者スティーブン・スローマンとフィリップ・ファーンバックによれば、人びとは「自分がものを知っている」としばしば錯覚する。
ほとんどの人は「水洗トイレ」を知っているが、どのような仕組みで水が流れるかは説明できない(「説明深度の錯覚」)。
私たちは「知ってるつもり」になりがちであり、自分が思う以上に無知なのである、、、
「敵と味方を峻別する発想が強い」といわれるポピュリズムは、「道徳感情」を利用して「亜インテリ」を「動員」している、、、
また「怒り」の感情が最も拡散されやすい。
「道徳感情」を煽る投稿は同じ「道徳部族」の内部で拡散されて、「あいつら」を隔離して「われわれ」の結束を高める役割を果たしている。
私たちの「部族主義」を利用し、「道徳感情」を「動員」するポピュリズムにとって、Twitter(X)は最適の「環境」なのである、、、
本来ならば、言論活動を担う知識人や専門家は、「道徳感情」を適切に言語化し、洗練する役割を担うべきである(推論システム)。
ときにはその誤りを指摘し、取捨選択をする必要もある。
ところが、専門家や知識人のなかには(意識的にか無意識的にか)大衆の「直観」や「感情」にすり寄り、「道徳感情」を掻き立てるものが増えている。
しかし、そうなると「亜インテリ」で十分である。