長い間、家族と音信不通状態だった60代の男性Bさん。
Bさんは家庭を全く顧みない仕事人間。
一方、Bさんは日本人であるならば誰でも知っているような、(元)証券会社のエリート営業マン。
しかし、酒癖が悪く、酔っぱらうと妻や子供に暴力を振るう男性。
仕事に明け暮れ、ある日帰宅すると奥さん子供に逃げられ、ひとり暮らしに。
そして50代前半の健康診断でガンが見つかる。
手術を繰り返す中、仕事を休みがちになり、早期退職。
外科手術を繰り返したものの、全身に転移が広がり、ホスピスへ入院。
Bさんには、誰ひとりとして見舞いに訪れる人はいなかった。
「全て自業自得だよ」「金の切れ目が縁の切れ目」と自嘲気味に話すBさんには、どこか陰のある寂しげな顔をしていた。
次第にBさんは朦朧とする意識の中で、元妻と子供と最後に話がしたいと言い出した。
病院のソーシャルワーカーを通じて元妻に電話をしたところ、元妻は「関わりたくない」と拒否。
俺は父親の葬式も出来ないし、遺骨もいらないから、あんたが代わりにやって始末してくれよ
さらに子供からは「俺は父親の葬式も出来ないし、遺骨もいらないから、あんたが代わりにやって始末してくれよ」と言われる始末。
この家族に何があったのか、分からない。
その後、Bさんは家族のだれにも看取られることなく、ひっそりと息を引き取った。
Sさんの葬儀は筆者が導師を務め、遺骨も引き取った。
長い間、家族関係に問題があった人が、末期癌になったからといって急に家族間の問題が解決するわけではない。
「親父の遺骨も要らない」と言う息子さんを、なんて冷たい奴だとも思わない。
息子さんは息子さんなりに考えがある。
一方で筆者は、Bさんの死が不幸だとも全く思わない。
BさんはBさんなりに自分の人生を全うされたのだと思う。
しかし、Bさんのような最期を自分が迎えたいかと言われれば答えはNOだ。
人は生き方を簡単に変えることはできない。
「人にやさしくしたい」と思っていても、自分自身に余裕がないと、人にやさしくすることはなかなか出来ない。
頭では分かっていても、そう簡単に人は今までの生き方を変える事なんて出来る事ではない。
Bさんは「過去と他人は変えられない」と言っていたことがある。
確かに自分自身の過去は変えらえない。
他人を自分の思うように変えたいと願っても、なかなか思うようには変わってくれない。
ならば「自分自身」が変わるしかない。
しかし自分自身を変えるのは容易ではない。
人間は、自分自身が「変わりたい」と本気で願わない限り、人は簡単に変われないもの。
Bさんは何度も「変われる」チャンスがあったはずだ。
しかし、変わらなかった。
Bさんは病気になり、誰かの助けが必要と感じた時に、家族に謝罪し、許しを請うこともできたはず。
自らの死が迫る中、葬儀や墓の準備もできたはず。
しかし、しなかった。
結果、家族は、遺骨の引き取り手すら拒否。。。。。
「逝き方」は「生き方」
筆者は様々な人の苦しみの現場を通じて、人間の「逝き方」は「生き方」であると思うようになった。
大阪の淀川キリスト教病院で医師として多くの患者さんを看取られた柏木哲夫先生は、「人は生きてきたように死んでいく」と言われている。
私もまったく同感である。
今まで家族との関係を顧みず、家族関係に問題がある方が、末期がんになったからといって急に家族との関係が回復し、家族に囲まれて亡くなるというケースは皆無に近い。
人間は急には変われない。
だからこそ、今が大事なのだ。
日頃の行いが、何より重要なのだ。
今の生き方がそのまま死に方に直結する。
人は「このままではダメだ。変わりたい」という自分の中から本気で湧き起こってくる意思で変わろうとしない限り、簡単には変われない。
多くの人の死に様を見させていただき、私はそう感じている。
もしあなたが人生の最期まで家族と寄り添って暮らしたいと考えるのであれば、今、この瞬間から家族とのあり方を見つめなおし、「その時」の行動をシュミレーションしておく必要があるのだ。