「相互扶助」:本能にもとづくものであり「無意識の良心」として働くモラル

もともと本能にもとづくものであり、そこに還ることによって「無意識の良心」として働く相互扶助のモラルは、社会的あるいは経済的に弱い立場に立たせられている人たちをも、道徳的に強くするものなのです。

むしろ、彼らは協同せずには自立できないことを自分たちの生活のなかから知っているだけに、そういう意味での道徳的な強さをもちうるのです。

それについては、オーウェンの研究者で協同組合について多くの著作を残している白井厚先生が、1980年に出されたレイドロー『西暦2000年の協同組合』に関する小さなパンフレットのなかで、「協同組合は、経済的弱者の結合ではなく、道徳的強者の結合となるべきである」とのべていたことを印象深く思い出します。

協同組合は相互扶助組織ですが、そこにおいて相互扶助が成り立っているのは、弱い者だからいっしょになって大きな団体をつくって強くなろう、というのではなくて、「無意識の良心」を発揮して協同のモラルを実現しようという強さをおたがいにもっているからだ、というのです。

われわれはみずからの生を拡張していこうとします。

生きる力を活き活きと発揮していこうとします。

そのとき、生きる力が溢れていけば、その力は自然に他にあたえられるのです。

そのとき、そこには、あたえることなしには生きつづけていくことができないという境地が生まれています。それがモラルなのです。――

「ほんとうに生きたといえるように生きよう」ということなのです。

クロポトキン『相互扶助論』から学ぶ――――15 – 単独者通信 脱近代を生きる
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相互扶助と競争を両立させる

相互扶助は扶助し合う仲間内だけで閉鎖的な集団をつくり開かれた社会を阻害するとか、生存競争を否定するから怠惰をはびこらせて社会の活力を失わせるとかいわれています。

 だが、そんなことはありません。

 まず「生存競争」という概念について考えてみる必要があります。

 もともとダーウィンが提起した「生存競争」という概念は、『種の起源』では相互扶助を内に含む広い概念だったのです。

ところが、この観点は十分発展させられず、「弱肉強食」のような狭い意味にされてしまったのです。

この「相互扶助と両立する競争」という観点を発展させたのがクロポトキンだったのです。その観点が、まえにのべた「形質の分岐」「生物学的隔離」「棲み着き」に着目する発想を生んだのです。

 ダーウィンは、こういっています。

生物の構造や、習性や、体質が分岐すればするほど、いよいよその [棲息する] 地域で支持される数が多くなる。……だから、ある一つの種の子孫が変化する間、またあらゆる種が数を増やそうとして競争しつづける間、その子孫が多様になればなるほど、いよいよ生存の戦いに成功をおさめる機会が多くなるわけである。

 つまり、多様化するほうが競争に有利に働くから、同種の間で競争するより、同じ種のなかで異質なものを生んで多様化する途を選ぶのだ、というわけです。

クロポトキン『相互扶助論』から学ぶ――――14 – 単独者通信 脱近代を生きる
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自助―互助―共助―公助、、、

 このような順番で自己統治すなわち自治の階層が積み重なっていくべきだというのが、補完性原理なのです。

 この補完性原理は、EU統合の際に、統合を導く原理として採用されたこともあって、日本でも数年前から、この原理が取り上げられるようになりましたが、その解釈に問題があります。

多くの場合、「互助」すなわち相互扶助抜きの補完性になってしまっているのです。これは、どういうわけでしょうか。

 これは、アルトゥジウスが論の対象とした中世の法制における権利のありかたと近代の権利のありかたとの違いを無視して、そのまま現代に適用しているためなのです。

中世においては、個人の権利というものはなくて、権利というのはあくまで団体の権利でした。

だから、自助というのは、その団体内部における相互扶助を含んだものなのです。

これに対して、近代の権利体系は、個人の権利から始まりますから、「自助」といえば個人の自助であり、「共助」との間には、相互扶助としての「互助」が入らなければならないのです。

 この点は注意しなければなりません。相互扶助こそが補完性原理を実践する第一歩なのですから。

クロポトキン『相互扶助論』から学ぶ――――13 – 単独者通信 脱近代を生きる
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クロポトキン『相互扶助論』から学ぶ   10、11、12、13、14

「新しい中世」思想の探求 - 単独者通信 脱近代を生きる
近代の終わり、脱近代の時代を生きる智慧を探る

「新しい中世」思想の探求 – 単独者通信 脱近代を生きる  Author: NEUEMITTELALTER

近代における〈選択縁〉を通じた相互扶助

フランス革命に始まる近代革命は、国家と市民社会を別の原理で――国家は平等原理の民主主義で、市民社会は自由原理の自由放任で――組織していきました。

これは、社会のあらゆる分野、あらゆる領域ごとに、その単位内部での自由と平等を結びつけた自己統治秩序をつくっていた中世社会のありかたと真っ向から対立するものでした。

 したがって、近代の政治権力は、その対立のなかで、権利の平等を阻害するとして、また自由の障壁をつくることになるとして、地域ごと・職業ごとにそれぞれ異質な基準で諸個人がまとまって自立した単位をつくっている状態を打破していったのです。

 村落共同体も自由都市も民会・裁判権・行政権を破壊され、同業組合は自由を奪われて国家の監督のもとに置かれました。

 それは自律した個人が自由にふるまえば、神の見えざる手によって調和が形づくられるというレッセ・フェール、レッセ・パッセ laissez-faire laissez-passer (「為すに任せよ、行くに任せよ」すなわち自由放任)の思想にもとづくものでした。これが近代社会組織の思想的原点です。

 そして、それまでこれらの団体を通じておこなわれていた相互扶助は国家が社会保障としておこなうということになっていったわけです。

国家がそれを保障するから、市民社会においては、各個人が自由に自己の利益を追求してかまわないというわけです。

 これがクロポトキンのいう「一人は万人のために、万人は一人のために」から「各人は自己のために、国家は万人のために」への転換の中身です。困っている人の救済を具体的で人格的な相互扶助から抽象的で非人格的な国家施策へと変質させてしまったのです。

 クロポトキンは、こういっています。

国家があらゆる社会的機能を吸収してしまったことは、必然に、放縦なそして偏狭な個人主義の発達を助けた。人民は、国家に対する義務の数が増して行くに従って、明らかに人民同士の間の義務を免れた。……

かくして今日では、人は他人の欲望の如何にかかわらず自己の幸福を求めることができまた求めなければならないものであるという理論が、どこにでも……勝利を占めている。これが今日の宗教である。

 こうした状況に直面しながら、中世に生まれた〈業縁〉による個人の連合を発展させることによって近代における相互扶助連合を組織しようする動きが一方にありました。

初期社会主義の思想は、サンディカリズムにしても協同組合主義にしてもトレードユニオニズムにしてもギルド社会主義にしても、それを追求したものだったのです。

それは、クロポトキンのいう「相互扶助社会の新しい表現」の追求だったのです。

 そして、「新しい表現」は実現されなかったとはいえ、相互扶助関係を圧しつぶすようにしてつくられたゲゼルシャフト=人為社会=公認社会のなかにあっても、まだゲマインシャフト=自然社会=実在社会は、圧迫に耐えて生きていたのです。

 村落共同体は破壊されましたが、農村の生活のなかには、かつての共同体の習俗と慣習がいたるところに生きていました。共同労働や互酬関係も生きていました。

自由都市の自由は奪われましたが、都市の街区ごと、教区ごとの住民組織は生きていました。

同業組合=ギルドは国家の監督のもとにおかれましたが、それに代わってさまざまな労働組織が生まれました。

 近代になってから新たにつくられた組織としては、労働組合は、初期のうちは、いまのように賃金と労働条件をよくするためだけの組織ではなく、労働者の間での相互扶助組織の性格をもつものでしたし、農民の協同組合、労働者の消費組合も相互扶助を目的とする組織でした。

また、社会的、経済的、文化的、芸術的さまざまな目的で結合したボランタリーなクラブやアソシエーションも自助・互助の機能を果たしてきました。

クロポトキン『相互扶助論』から学ぶ――――⑨
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こんな話が記録されています。

アレウト人の間で十年間暮らしながら活動していたロシア人宣教師が、しばらくのあいだ母国に帰るとき、贈り物として一尾の干魚をもらったのですが、それを置き忘れていってしまいました。

宣教師がふたたびもどってきたとき、その干魚は、そのまま残されていました。彼がいない間に二ヶ月にわたって大飢饉が襲ったにもかかわらず、その魚に手をつけることがなかったのです。  

トルストイの「イワンのばか」や「人はなんで生きるか」のような話ですが、実話です、、、

現在の先進国社会では、「国家にぶら下がって生きていこうとする弱者」を蔑視し排撃しようとする人たちと、「弱者すべてを面倒みようとしない政府」を批判し忌避しようとする人たちとが対立し、、、

未開人の棄老行為を非難するヨーロッパ人に対して、クロポトキンは、次のように言っています。
 
・この同じヨーロッパ人が未開人の一人に向って、ヨーロッパでは、自分の子供に慈悲深いそして他人にはごく親切な、そして舞台の上で真似事の不幸事を見ても泣くほどに多感な人々が、ただ食物のないばかりに子供が死ぬ貧民窟から、石を投げれば届くほどの手近に住まっていると語ったなら、その未開人はこの言葉を理解することができないに違いない。  

ここに近代人の盲点があります。

この点において、近代社会は、「万人のために」おこなうべきことを国家に託して、「各人のために」おこなうことを各人の自由にするという分離をおこない、それを原理とした社会と国家を成立させました。

そして、その結果、社会そのものは原理的には個体の集合という無機的な「群」状態にもどってしまい、共同集団を基礎にした有機的な結合体という性格を失ってしまったのです。

クロポトキン『相互扶助論』から学ぶ――――⑥ – 単独者通信 脱近代を生きる
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『相互扶助論』の背景には、19世紀を根底から揺るがす一大事件であったダーウィンの進化論をめぐるひとつ
の解釈戦争

──「闘争」は比喩的なのか字義的なのか──があった。

そして『相互扶助論』の遠大なる目的とは、社会ダーウィニズムには逆らいつつ、しかしダーウィンには寄り添いながら、競争や闘争に代わるオルタナティヴな倫理的可能性を分節化することであった、、、

とはいえ、自然から、協力や協同という善良そうな理想を引き出すというのは、自然から、万人の万人にたいする闘争という血生臭いイデオロギーや、利己的で功利主義的で合理主義的なホモ・エコノミクスを引き出そうとするのと同じくらい、いかがわしい行為である。

自然から倫理を引き出そうとする態度──「ある」から「べき」への横滑り──は、つねに問題含みである、、、

科学史家ダニエル・P・トーデスによれば、『相互扶助論』はクロポトキンというひとりのアナキストの奇説ではなく、ロシアにおける正統的なダーウィン批判──ダーウィンに内在するマルサス的世界観(人口は増加し、食料は不足するがゆえに、闘争は不可避である)の問い直し──を引き継ぐものである。

ダーウィンやウォレスの生きられた経験である熱帯の過剰なまでに豊饒な自然ではなく、ロシア人にとっての共通認識である寒冷で峻厳な自然を梃子にして、クロポトキンは、「自然淘汰」の争点や力点を、個体同士の生存闘争から、個体群とその自然環境のあいだの生存闘争(とそこで生存戦略として立ち上がってくる個体群のあいだの協力と協働)へとシフトさせる、、、

『相互扶助論』は、19世紀が収集した膨大な知の総合的アレンジメント──進化論、動物学、人類学、歴史学、社会学──であると同時に、数ヶ国にまたがるさまざまな知的潮流──ロシアの博物学、非ヨーロッパ社会の民族誌、スラヴ-南欧のアナキズム、ヨーロッパの実証主義科学──の特異な結節点でもあった。そこに、『相互扶助論』の魅力的な雑多さと厄介な捉えづらさがある。

グレーバーとクロポトキンをつなぐもの──相互扶助の倫理的感性 | 研究ノート | Vol.41 | REPRE
https://www.repre.org/repre/vol41/note/oda/

相互扶助論の発想はフィールドワークから生まれた

私がシベリアでおくった五年間は、人生と人間の性質についてのほんとうの教育を私にほどこしてくれた。私はあらゆる種類の人間と接触した。

最善の人間と最悪の人間、社会の最上層に立っている人間とどん底にあえぐ人間――浮浪者や救いがたい犯罪者――そのいずれとも知り合った。私は農民たちの日常生活における習慣を思う存分観察することができたし、また政府の行なう政治が、たといどんなにいい意図のもとに行なわれたにしても、農民たちの生活をうるおすことはほとんどできないということも観察することができた。

クロポトキン「ある革命家の手記」

クロポトキン『相互扶助論』から学ぶ――――① – 単独者通信 脱近代を生きる
http://neuemittelalter.blog.fc2.com/blog-entry-145.html

相互扶助は人間の意識を通じて創り出されたのではなく動物の本能にもとづいて生まれたものである

人間の社会だけでなく動物の世界にも相互扶助に当たるものが見られます、ということを示そうとしたものではありません。

そうではなくて、逆に、相互扶助というのは、人間が考え出したものではなく、生物自体の生命活動にもともとそなわっている性質であって、人間は動物からそれを受け継いだのだということを言おうと
しているのです。  

この観点は全篇に貫かれています、、、

クロポトキンは、「相互扶助をおこなわなければならない」と説いているのではなくて、「相互扶助は生物にとってあたりまえのこと、なくてはならないものなのだ」ということを事実を通じて明らかにしようとしているのです。

そして、そのあたりまえのこと、なくてはならないものがあたりまえではなくなり、失われつつあるのはどうしてなのか、何によってそうなってしまったのかを私たちに考えさせようとしているのです。

クロポトキン『相互扶助論』から学ぶ――――② – 単独者通信 脱近代を生きる
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もしかして僕たち、洗脳されている?

クロポトキンの目線で歴史を見つめると、世界が全く異なって見える。

これまでは近代資本主義こそが進歩のシンボルだと思っていた。

しかし、停滞の時代だと思っていた中世の方が、個人の創意工夫に満ち溢れた進歩的な時代だった。

僕たちは自由と民主主義を享受していると教わっているが、どうにも中世の人たちの方が自由で民主的に見える。

国家があらゆる公共サービスを提供するのが最も効率的だと思っていたが、歴史の大部分ではまるで国家は邪魔者扱いだ。自分たちで協力して全てを決めている人たちの方が、生き生きとしている。

相互扶助という本能を抑え込まれ、国家や通貨がなければなにもできない弱い個人に分断されて生きる僕たち。まるでディストピア小説に出てくるような、飼い慣らされた家畜じゃないか。

クロポトキンは、まだ相互扶助は生きていると言った。確かに現代でも、日常レベルには存在する。

しかし、これほどまでに個人主義が進み切ったいま、相互扶助の世界を取り戻すことはできるのだろうか。

クロポトキン『相互扶助論』を読んで|まとも書房/哲学者ホモ・ネーモ
https://note.com/kaduma/n/nf2e2366dd90f

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