「さわり」によって破られる思い
本文著者:宮城しずか
出典:教化冊子『真宗の生活』(2019年版)
亡くなった武満徹さん(一九三〇~一九九六)は、日本の作曲家の中でも特に世界で評価されている方でした。
その武満さんは文章の中で「さわり」という言葉を取り上げておられ、日本人は「さわり」を大事にする歴史があると言っておられます。
特に雅楽ですが、笙、篳篥などの日本の楽器は、わざわざ「さわり」が付けてあると言っておられます。
音がすーっと出るのではなく、出にくいように「さわり」が付けてあるということです。
その「さわり」をくぐって音が出始める時、その音は実に自由な音色を持つと。
私たちは「さわり」というものを、私の幸せを邪魔しているものだと思い、この「さわり」さえなくなればと思っているのですが、それに対して武満さんは、そうではなく「さわり」のあるところに実は本当の人間としての自由があるというのです。
つまり、「さわり」において初めて私たちは自分というものを問い、尋ね、そして自分というものを叫ぶのです。
なにもかもが思いのままになる時には、人間は自分というものがわからないのです。
極端なことを言えば、「お前の命はあと一年もないだろう」と宣告され、死を自覚させられる時がこなければ、自分を問い尋ねることがなかなか始まらないのです。
生にとって、人間にとって、死はもっとも究極的な「さわり」です。
私はどこまでも生きていたい、思いはどこまでも生きていたいのですが、その生きていたいという思いを断ち切るものとして死があります。
元京都大学教授でギリシャ哲学の世界的な権威であった田中美知太郎先生(一九〇二~一九八五)の言葉に「死の自覚が生への愛だ」というものがあります。
自分の死、この私が死ぬということを知らされたら、一日たりとて、それこそごろごろと昼寝はしていられません。
たとえ一瞬でも、かけがえのない一瞬になります。
初めて自分のいのちを大事に、自分というものが本当に生きたと言えるものがどこにあるかということが問われてきます。
親鸞聖人が問うておられました「そのこと一つ」というものを、曇鸞大師は「志願」という言葉であらわしています。
それは言うならば、私のいのちの叫びです。
この身に受けているいのちの持っている願いです。
私がこの身に持っているいのちの願いというものに初めてふれさせられるのが、実は「さわり」においてだと言えます。
思いのままに生きている時は、思いを破ることはなく、思いを超えることはないのです。
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