1993年9月13日、ワシントンのホワイトハウスで行われた、PLOのアラファート議長とイスラエルのラビン首相の握手をテレビで見た人もあるだろう。
「百年戦争」にもたとえられるパレスチナの長い戦い。
これに終りを告げようという「原則の宣言」(DOP)調印式でのできごとだ。
アラファート議長は、さっとラビン首相に歩み寄り、右手を差しのべた。
一瞬ためらうラビン首相の肩を、立会いのクリントン大統領が軽くたたく。
拍手が鳴りひびくなか、二人の首脳の手が、二度、三度、大きく振られた。
余裕を感じさせる、にこやかな顔のPLO議長、こわばった表情を崩さないイスラエル首相。
PLOが勝ちイスラエルが敗れたのかと錯覚させるような光景だった。
事実は逆である。
たしかに「原則の宣言」は、イスラエルとパレスチナ人民が、「平和のうちに共存し、、、公正で、永続する全面的な平和の取り決めのために努力する時が来た」とうたっている。
だが、これは圧倒的な強者と弱者のあいだの協定であり、強者とは、もちろん、イスラエルであった。
PLOが敗れたことは、あの歴史的な調印式の数日前に交された両首脳の手紙を読むとはっきりする。
イスラエルが「原則の宣言」に則ってPLOと交渉することの見返りに、アラファート議長はPLO憲章の改正をふくむ多くのことを、一方的に約束させられたのだ。
PLO憲章は、パレスチナ人の憲法といってよい。
休戦の条件として憲法の改正まで約束した話は、今まで聞いたことがない。
・PLOが敗れた原因
なぜPLOは敗れたのか。
その大きな原因をつくったのが、1991年の二大事件、ソヴィエト連邦の解体と湾岸戦争だ。
ソ連の解体は、二重の意味でPLOに打撃を与えた。
第一は、ソ連から脱出したユダヤ系市民のイスラエルへの移民ラッシュだ。
1985年から始まったソ連の民主化改革は、一方で経済や社会の大混乱を引き起こした。
人々の生活は苦しくなり、民族対立から暴動や内乱が始まった。
こんな時、ソ連政府は市民の出国制限を緩めたのだ。
これは、民主化の一環ではあったが、アメリカの強い要求に応じたものでもあった。
こうして、社会混乱から反ユダヤ主義が復活することをおそれるユダヤ系市民の脱出が始まった。
ところが、当のアメリカは、ソ連からの移民受け入れ制限を強めた。
こんなわけで、ソ連解体の前後計4年間だけでも、何と40万人のソ連人移民がイスラエルに押し寄せたというわけだ。
突然の移民ラッシュにイスラエルの右派政権は自信を強め、占領地での土地取り上げと入植地建設のピッチを上げた。
第二が、PLOへのソ連の援助停止だ。
理由は簡単。
まず、国内の混乱でそんな余力がなくなったこと、つぎに、冷たい戦争を終らせたソ連にとって、
イスラエルに肩入れするアメリカに対抗して、パレスチナ側を支える必要がなくなったことだ。
しかし、ソ連の解体以上にPLOへの打撃となったのは、1990年8月のイラクによるクウェイト占領から引き起こされた、湾岸戦争だといえるだろう。
PLOは両国の「調停者」の立場をとり、平和のうちにイラク軍の撤退を実現させることで大きな得点にしようと考えた。
ところが、イラクが、イスラエルの1967年の占領地からの撤退を条件にクウェイトから撤退するという「リンケージ論」を打ち出すと、パレスチナ人にかぎらず多くのアラブの民衆はイラクの立場を熱烈に支持した。
PLO指導部もこの勢いに流され、しだいにイラク寄りの姿勢をとっていく。
だが、湾岸戦争は、翌(1991)年2月、アメリカを中心とする連合軍の圧倒的な武力によって決着がつけられた。
敗れたイラクはきびしい制裁を受ける。
侵略者支持と見なされたPLOは、1974年以来築きあげてきた国際世論の支持をいっきょに失なった。
外交上の得点を狙ったアラファートの賭けは、完全な失敗だった。
それだけではない。
クウェイトと、連合国側に立った湾岸産油諸国は、PLOへの資金援助をすべて停止し、国内に住む約40万人のパレスチナ人を追放した。
重要な資金源を断たれたPLOの財布は、アッというまに空になった。
・イスラエルとの交渉
しかし、イラク軍を力で追い出したアメリカも、「リンケージ論」を熱烈に支持したアラブの民衆の声を無視することはできなかった。
こうして、アメリカの呼びかけで開かれたのが、パレスチナ問題の解決などを議題とする、1991年10月30日からの中東和平マドリード国際会議である。
この国際会議には、エジプト、シリア、ヨルダンなどのアラブ諸国とイスラエル、主催国のアメリカなど、計7か国と「パレスチナ代表団」が出席した。
全体会議は三日間で終り、具体的な問題は、その後イスラエルとそれぞれのアラブ諸国の間で行われる「二国間交渉」で話し合うことを決めた。
PLOは、形式的には、国際会議と二国間交渉のわく外に置かれた。
しかし、ガザのアブドゥル・シャーフィー医師の率いるパレスチナ代表団は、公然とPLO本部と連絡を取りながらイスラエルと交渉した。
この交渉で、パレスチナ側は、イスラエル側に対し、細かい問題について話し合いにはいる前提として二つのことを要求した。
67年の占領地は全部返すという原則を確認すること、占領地での土地接収や入植地建設を全面的に停止することである。
イスラエル側はいずれも拒否した。
そして、大きな問題はとりあえず横に置き、占領地の一部で試験的に選挙を行ったり、行政権の一部を占領地のパレスチナ人に委ねることなど小さなことから始めようと提案した。
行政権の一部とは、たとえば、公立病院や保育園・福祉施設の管理・運営などだ。
交渉はたちまち行きづまった。
交渉を10年、20年と引き延ばし、その間に占領地へ入植者をつぎつぎ送り込んでこれをイスラエルのものにする。
これがリクード政権の作戦だったから、行きづまるのは当然だ。
・イスラエルの方針の変化
しかし、イスラエルで政権が交代すると、予想外のことが起きた。
舞台裏で、イスラエルとPLOの直接交渉が始まったのだ。
1992年7月、15年ぶりに政権を取り戻した労働党は、和平交渉を進展させて「平和の党」としての実績を見せたかった。
たまたまノルウェイに、労働党とPLOの両者とつながりの深い学者や政治家がいて、彼らの仲立ちをした。
92年の末ごろからノルウェイのオスロで始まった秘密の会合は、やがて本格的な交渉に発展し、ついに1993年8月20日、イスラエルとPLOの間に「オスロ合意」と呼ばれる協定を成立させた。
この協定こそ、9月13日、表舞台のワシントンで正式の調印が行なわれた、あの「原則の宣言」とほとんど同じものである。
PLOとの交渉、承認を拒否しつづけてきたイスラエル労働党が、なぜ方針を変えたのか。
その理由は、先ほど見たように、政治的・経済的・軍事的に弱体化した相手と舞台裏で取り引きすれば、強者としてのイスラエルの立場を十分に生かすことができると考えたことだろう。
表舞台のパレスチナ代表団は、全占領地の返還と入植の停止を要求して一歩も退かず、国際世論に支持を訴えていた。
しかし、誰にも見えない舞台裏でPLOと交渉すれば、もっと譲歩を引き出すことができるように思われた。
これ以上PLOが弱体化すれば、今度は適当な交渉相手がいなくなる。
たとえば、占領地で力を伸ばしてきたイスラーム復古主義者の「ハマース」相手では、当分のあいだ交渉が進む見通しはない。
交渉で実績をあげたい労働党政権は、「今が潮時だ」と考えたのではないだろうか。
一方、PLOのアラファート議長らは、1988年にイスラエルとの共存という歴史的な妥協を申し出たのに、相手側から何の答も引き出すことができなかった。
湾岸戦争への対応の失敗もあって、PLOの組織そのものが解体の危機に直面していた。
どんなに小さくてもよい。
目に見える成果が必要だったのだ。
こうして、PLOは、重要な原則上の問題をすべて棚に上げ、できることから手をつけるという、イスラエルの主張する方式を受け入れたのだ。
その上、アラファート議長は、イスラエル建国が不正、不当であるという国民憲章の改正を約束するという、最後の切り札まで差し出した。
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アラファート議長よりラビン首相あての書簡 1993年9月9日
首相閣下
原則の宣言は中東の歴史に新しい時代を開くものです。
このことを確信して、私は、PLOが以下の約束を守ることを確認します。
PLOは、イスラエル国家が平和に生存し安全を保障される権利を承認する。
PLOは、国連安全保障理事会決議242号と338号を受け入れる。
PLOは、中東和平プロセスに参加し、両者の間の紛争を平和のうちに解決することを確約する。
また、[パレスチナの]恒久的な地位に関する重要な諸問題は、交渉を通じて解決することを宣言する。
PLOは、原則の宣言が歴史的事件であり、暴力や、そのほか平和と安定を脅かす行為のない平和共存の新しい時代を画するものだと考える。
それゆえ、PLOは、テロ、その他の暴力を放棄する。
また、すべてのPLO関係組織と構成員が[その精神を]順守することに責任を持ち、違反行為を防止するとともに違反者は処罰する。
新しい時代の到来と原則の宣言の調印、さらに、パレスチナ側の安全保障理事会決議の受け入れにかんがみ、PLOは、パレスチナ憲章のなかで、イスラエルの生存権を否定したり、この書簡による確約と両立しないような条項が今や効力を失なっていることを確認する。
それゆえ、PLOは、パレスチナ国民評議会に対し、パレスチナ憲章に関して必要な変更を加えることを公式に認めるよう提案する。
PLO議長 ヤーセル・アラファート
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(注)この手紙に対するラビン首相の返信(翌10日付)は、PLOをパレスチナ人民の代表として認め交渉を開始するという、きわめて簡単なものだ。
この歴史的なアラファート=ラビン往復書簡は、PLOとイスラエルがお互いを承認し合ったことを意味する。
しかし、両者の手紙の間のアンバランスに注目してほしい。
アラファートの手紙は全文300語近いが、ラビンのは60語にも及ばない。
アラファートは、イスラエル承認、国連決議受け入れのほか、テロと暴力、つまり武力の放棄と、この方針に従わない者への処罰、さらにパレスチナ人の憲法に当たる「パレスチナ憲章」の改訂まで約束している。
一方、ラビンは、PLO承認以外になにひとつ約束していない。
たとえば、国連決議の受け入れや国際法の尊重、パレスチナ人民の政治的権利といった表現は一切ない。
つまり、イスラエルとPLOの交渉は、対等な当事者間のものではなく、勝者と敗者の間の交渉であったことがわかる。
奈良本英祐「君はパレスチナを知っているか」(1997年刊行)