【プライマリ・ヘルス・ケアとは】

【プライマリ・ヘルス・ケアとは】(若月俊一著作集第5巻掲載論文「プライマリ・ケアの精神と方法」1980)

プライマリ・ケアなどといまさら英語など使うのはうしろめたいことで、私などは前から「第一線医学」という日本語を使っていた。

けれども、残念ながらプライマリ・ケアは、アメリカから直輸入してきたという事情もあったし、他方、WHOからも、同じこの言葉が入ってきて、いわば国際用語に今日ではなってしまった。
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このプライマリという言葉の意味についてまず述べると、プライマリ・ケアは、正しくはプライマリ・ヘルス・ケアというべきだと思うが、どういうわけかわが国ではヘルスを略している。
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そもそも「プライマリ」とはどういう意味かというと、ずいぶんこれを複雑に解釈する人もあり、何が何だかわからないという声をよく聞くが、私は少し独断的かもしれないが、次のように二つに分けて理解している。

まず第一に、アメリカ流の解釈によると、プライマリとは、セカンダリ・メディシンまたはターシャリ・メディシン、すなわち、第二次または第三次の医学に対するアンチテーゼと考えられる。
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従来の医学があまりにも専門分化しすぎて、総合性を失ってしまった。

それをとり戻さねばならないとする反省がそこにあるわけである。

つまり、従来はあまりに「病院の医学」であった。
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ところが、もう一つ数年前からWHOなどで、プライマリ・ヘルス・ケアということがさかんにいわれるようになった。

これは前者の先進国での発想と違い、開発途上国の立場からのものである。

この場合のプライマリの意味あいは、ニュアンスがだいぶ違う。

漠あり、離島あり、山間へき地ありと開発途上国の国々では、そもそも、セカンダリ・メディシンなどはない。

もちろん、ターシャリなどありようはずもない。

こうした「無医村」的なところでは、プライマリの意味は、ベーシック、つまり基本的といおうか、あるいはエッセンシャル、つまり本質的とでもいおうか、そのような意味が強い。
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日本の農村医学では、この両方のプライマリ・ケアがそれぞれ必要だといえよう。

あまりにもセカンダリ・メディシンの専門分野が進みすぎて困るという面もわが国にはあるし、また同時に、無医村的環境の不便もたくさん残っていて、まだまだ医療が農山村住民にゆきわたっていないという面もある。

そして、この後者の面を特に重視するのが、私ども日本農村医学会の主張である。

日本ではプライマリ・ヘルス・ケアを略して、単にプライマリ・ケアといっていることについては先にも述べたが、これはわが国がまだヘルスについて偏見をもっているせいではなかろうか。

実は私は常々「農村医学はヒューマニズムの医学である」と主張してきているが、その精神の中には農村医学はヘルスの医学であって、単なるメディシンの医学ではないという考えがある。

もちろん、メディカル的なものを含むが、さらに、予防も、リハビリテーションも、そして、福祉もこれからの医学のあり方だと思う。

そういう立場からいうと、今日ヘルスという言葉を略すのはまずいといえよう。

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アメリカのプライマリ・ケアの内容が、Community & Family Practice として確立されたのは、1965年のことである。

今度アメリカに行ってみると、医科大学をメディカル・カレッジと呼ぶところが少ない。

新しい医科大学は、カレッジ・オブ・ヘルスサイエンスと呼ぶところが多くなっていた。

メディシンでは狭い。

ヘルスという言葉を、幅広く使うようになっていた。

そしてどこに大学にも、内科、外科と匹敵するような新しい科ができていた。

それが Community & Family Medicine というデパートメントである。

そこには特別の卒後教育3年間のレジデンシーもある。

それを終ると American Board of Family Practice の試験があって、それに合格してはじめてファミリーフィジシャンの称号を得ることになる。

さて、アメリカのプライマリ・ヘルス・ケアの学問の内容を具体的に分析してみると、だいたい4つないし5つの特長が挙げられるかと思う。

まずその定義だが、アメリカではファーストコンタクトの技術ということに力を入れている。

すなわち、最初の住民との接触、いいかえると、それが病院でもあるいは病気を持たないひとでもが、第一線の医者のところへ行って相談をする、カウンセリングを受ける。

この最初のコンタクトの医療の技術と理論をプライマリ・ヘルス・ケアと規定しているようである。

この特徴を4つほど挙げてみると、まずアクセシビリティということ。

つまり、誰が行っても、どんな健康上の問題でも、そこでアクセス、すなわち受け入れてくれる。

そんな問題は私の専門科ではないからだめだと断るようなことはしない。

これは住民にとっては最も大事なことである。
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その次は、コモン・ディジーズの処置。

コモン・ディジーズという言葉は普通の病気ということで、これが特に大切だということである。

いままで私どもはとかくむずかしい病気だけに注目する傾向があった。
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次に、continuity(継続性)の問題。

これは患者を継続的に見守ること。

そのときだけ適当に診ればいい、あとはどうなってもかまわない、そういう接し方ではいけないということである。
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第4番目は、プライマリ・ケアの基本的精神である包括性ということである。

単なる治療だけでなく、予防や早期発見も、さらにリハビリテーションも含める必要がある。

また、福祉の問題に対する理解も大切である。
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それから、チームの調整役というドクターの重要な役割がいわれている。

つまり、いままでのように、医者一人がなんでもかんでもやるというオールマイティ的な考え方ではだめで、プライマリ・ヘルス・ケアでは、何よりも他のヘルスワーカーとのチームワークが必要である。

これについては抵抗を感じる医者があるかもしれないが、従来のように医者が独善的で、あぐらをかいていてはいけない。

患者の経過のことを真剣に考えるなら、皆で協力しなければならない。

保健婦とも、看護婦とも、そしてケースワーカーとも協力しなければいけない。
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プライマリとかセカンダリとかいうのは、そもそも医療システムを前提にしての考え方であって、医療の地域化ができていなければいえないことである。

私が好んで「第一線」、すなわちフロントラインという言葉を使っているのは、わが国には本来的にそのようなシステム化がない。

つまり、プライマリとセカンダリの機能分担がまだ十分に行われていないからなのである。
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さて、プライマリ・ヘルス・ケアには、もう一つの面がある。

すなわちWHOが別に、プライマリ・ヘルス・ケアということを、さかんにいいはじめるようになったことによる。

最初は1975年のWHOの執行理事会であった。

ところが1978年にプライマリ・ヘルス・ケアに関する第1回国際会議がソ連のアルマ・アタで開かれた。

これには日本から当時の厚生省の大谷藤郎審議官が出席されている。

あとで大谷先生のお話を承わると、その会議は非常におもしろくかつ有益だったようである。

私は先生から直接その模様をうかがったが、たいへん勉強になった。

それ以前1977年には、国連で第30回世界保健総会が開かれた。

いまや世界中の人びとが、社会的、経済的、生産的人間の健康を守るということが大きな問題になっていた。

働く人が喜んで労働ができるような人間的生活が、社会的にも経済的にも守られなければならぬ。

そのための健康レベルの確保が重要である。

特に、開発途上国の、アジアやアフリカ、ラテンアメリカ、そういう国々の離島や山間へき地に住んでいる人びとに今日的保健の技術が普及されなければならないという、いわば人権宣言みたいなことがそこで打ち出された。

こういう健康についての人権宣言の精神が、具体的にはプライマリ・ヘルス・ケアにむすびついていわれるようになったのではないであろうか。

まず、プライマリなことが人類の名においてなされねばならぬ、ということなのである。

アルマ・アタの会議での内容を紹介すると、要するに、開発途上国と先進国の保健問題についての格差をなくす必要がある。

いったいいま地球上には40億を越す人口があるが、現実にはその5分の4はまだ、プライマリ・ヘルス・ケアさえろくに受けていない状態ではないか。

逆にいえば、5分の1の人口が、非常に進んだ医療や保健の恩恵を享受している。

これは不公平すぎるのではないか。

そういう基本的な考えからWHOのプライマリ・ヘルス・ケアの要望が生まれたのである。

したがって、ここには人類愛的な、いわゆるヒューマニズムの精神があるわけである。

1978年のアルマ・アタ宣言には137カ国が参加しているが、WHOのマーラー事務局長の演説が非常に興味深い。

アルマ・アタ宣言では、「社会正義と地域開発」と、こういう根本的精神にのっとって、なによりも第一線の包括的な医療が必要である、といっている。

そこに大切な方法として、住民参加ということを強くいっている。

こういうWHOの国際会議などになると、政府のえらい方々が集まる。

それから、厚生省のお役人といっても特に上役の方々がそれぞれ各国の代表として出るわけであるから、どうしても国家的な、ガバメンタル(政府的)な立場からの話になる。

そこのところが、私どもの学会のような Non Governmental の組織とはニュアンスの違ったものになる。

私どもはどちらかというと、住民ないし農民の、つまり「下から」の立場でものをいうようになる。

だから、「住民参加」などという言葉は自明のこととして、特に言挙げしないような傾向があるといえよう。

それはそれとして、この「社会正義と地域開発」と結びつけて、人間の健康を論じようとする幅広い考え方はすばらしいではないか。

それを具体的に発展させて、医学の包括性や「第一線性」の重要性、さらに住民参加の問題まで出す。

私はやはりたいしたことだと思う。

ここに社会主義性を感じとって、イデオロギー的だなどというのは当たらないと思う。

これに三つのことがいわれている。

一つは、自決の精神。

先ほど述べたように、ここでは開発途上国の立場がつらぬかれねばならない。

よその国の力や援助に頼るだけでは本当の健康は守れないであろう。

これは中国でもベトナムでも、同じ意見に相違ない。

他国の、進んだ技術をただまねすればいいというものでははい。

その国にはその国の住民の保健のやり方があるはずである。

しばしば、先進国の援助や必要になるであろうが、ただそれに頼るだけではだめであろう。

たとえ、経済的、技術的援助はしてもらおうとも、自分たちは自分たちで自主的にやるんだという精神は必要だと思う。

そうでなければ住民の健康を守れない。

保健には自決の精神が重要なのである。

次に、それにつながる問題だが、アプロープリエイト・ヘルス・テクノロジー(Appropriate Health Technology)、アプロープリエイトすなわち適切なとは、地域住民の実情に適切なということである。

「適切な」健康に対するテクノロジー、すなわち技術ということである。

その国やその地域の実情にあった技術でなければいけない。

なんでも外国のよいものをもってくればいいというものではないというのである。

その国の資源の問題もあろう。

また、その地域住民の慣習だって無視できないものがあるかもしれない。

なんでも金のかかることがいいとは限らないし、なんでも機械を使えばいいとも限らない。

この考え方を、頭文字だけに略してAHTといっている。

ただし、その基礎にはベイシック・ヒューマン・ニーズが満たされねばならない。

ここにまたベイシックという言葉が出てくるが、健康(ヘルス)こそ人間の「基本的」なニーズだということである。

これを略してBHN(Basic Human Needs)と呼んでいるようである。

これについては、マクナマラ世界銀行総裁がこういっている。

「ナイロビ宣言」の中で「他国の援助をすることは大切だ。

援助はする。

しかし、何よりもその国の住民のニーズを知って、それに従わなければならない」と。

それをしないで、とかくハイウェイをつくったり、大きなビルディングを建てたりすることばかりに力を入れる傾向がありはしないか。

住民生活に基本的なニーズ、例えば、福祉保健だとか教育だとか、そういう基本的なものに真っ先に金を使うべきだ。

そうでなければ、いわゆる「南への援助」も意味のうすいものになるというのである。

このBHNと先に述べたAHTとがしっかり組み合わさってヘルスの仕事がされねばならない。

この意味をつかむことが重大だとアルマ・アタ宣言では主張しているのである。

(若月俊一著作集第5巻掲載論文「プライマリ・ケアの精神と方法」1980)

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