7月12日にタレントのりゅうちぇる氏が自殺し、日本社会に衝撃を与えた。
2017年に厚生労働省が試算したところによると、2015年に自殺者が出たことによる経済的な損失額は推計約4600億円にも上ったという。
自殺者が出ることは経済的にも大きな損失になるということだ。それが影響力のある芸能人、りゅうちぇる氏のようなケースではなおさらだろう。
フランス哲学者の福田肇氏は「彼は弱い人たちに寄り添う真のリベラルだった」と悼むーー。
りゅうちぇる自殺の真相は誰にもわからない
「死にたいと思う」と「じっさいに死ぬこと」のあいだには、百里の逕庭(けいてい)がある。
京極夏彦の言を借りれば、この逕庭の飛び越えは「通りものに当たる」ことでしか実行されない。
「通りものに当たる」ことは、まったくの偶然だ。あるいは不運だ。
次の仕事に意欲をもやしていても、空港に家族を迎えにいくことを約束していても、ふとある瞬間、「通りもの」がふとあなたの心をよぎる…… それが、あなたの背中を推して生と死のあいだにある決定的な境界線をまたがせる。
自殺の〝直接の原因〟はそうであるとしかいいようがない。
タレントのりゅうちぇるが、2023年7月12日に逝去した。「自殺」と報道されているが、それも詳らかではない。そもそも「詳らか」にできない事情がある。
彼の死亡覚知の同日、厚生労働省が、彼の自殺(?)の「手段や場所等の詳細を報じることは、子どもや若者、自殺念慮を抱えている人の自殺リスクを高めることにつながる」ため、WHO発行の「自殺報道ガイドライン」を踏まえて報道を自粛することを各メディアに要請したからである。
したがって、「自殺に用いた手段」も「場所の詳細」も「遺書の有無」も、その規制によって伝えられていない。
りゅうちぇるの死の「原因」については、さまざまな憶測がとびかっている。まず、女性ホルモン投与による精神的不安定。ネット上の中傷。父親としての責任のプレッシャー、うつ病など。
それらのどれもが「自殺」(?)の〝間接的な条件〟にはなりうるが、〝直接の原因〟にはなりえない。もしかしたら、本人にすら、後者はわからないかもしれない。
りゅうちぇるの優れた人権感覚「いじめ加害者の実名報道は、加害者の人生の更生を阻む」
亡くなったりゅうちぇるは、イデオロギーからではなく、みずからの身体経験そのものから、とても自然に、風のようにさらっとかろやかに社会的発言をしてくれた、稀有な存在だった。
2017年に放映されたあるバラエティ番組で、「いじめの加害者は実名報道すべきだ」という、大方の出演者が賛成票を投じた主張に対して、りゅうちぇるは、「実名の公表は、加害者の人生の更生を阻む」という自説を、いくら反論を受けても曲げなかった。見事な人権感覚である。
また、同番組で、他のゲストが竹島問題について、「竹島は日本の領土」として激しく韓国を批判したとき、りゅうちぇるさんは、「竹島を半分こにしたらいいんじゃないか」とユニークな論を展開。
愛国か反日か、という粗雑な二項対立的発想をするりとかわす、洗練された、かつ機知にとんだ発言だった。
旧統一教会問題でも、「宗教が悪いというのは偏見」と警鐘を鳴らした
2018年12月には、ニュース番組の同性婚の特集に出演、「異性愛と全く同じ愛なのに、性別を理由に結婚が認められないのは、不公平で悔しい」とコメントし、ホモセクシュアルの性的マイノリティーの方々にたいする高いシンパシーを示した。
また2022年7月31日には、日本テレビ系「真相報道 バンキシャ!」で、当時連日報道されていた世界平和統一家庭連合(旧統一教会)についてコメント。
「合同結婚式」や「霊感商法」を問題視しながらも、「被害者を多く出している教団はよくないと思いつつも、このニュースで宗教全体が悪いとか、そういう偏見が起きるのもまた違うのかなと思う」と語り、何かを信じている人の切実な心の内面を踏みにじりかねない、一種の〝魔女裁判〟に変わりつつあった報道に警鐘を鳴らした。
りゅうちぇるは、真の「リベラル」だった
ひとことで言えば、りゅうちぇるは、言葉の真の意味で〝リベラル〟なひとだった。
俗情と結託して、暑苦しいオヤジ的な硬直した〝正論〟をぶつ芸能人が多いなかで、彼は一服の清涼剤のように、かろやかで柔軟で繊細なヒューマニズムの視点を維持しつづけた。
その発想の根底にあるのは、名もない弱い人たち、しいたげられた人たち、差別された人たち、人権を剥奪されている人たちへのシンパシーであり連帯感だった。
そういう意味では、やはり先日亡くなった坂本龍一も、〝リベラル〟派を標榜する人間であった。
しかし、坂本さんが一流の知識人として、彼の膨大な教養と緻密な理論に裏づけられた社会的信念を発信していたのに対し、りゅうちぇるは、むしろマイノリティ、マージナルであることからおのずと醸成された感受性(あるいは身体感覚)に根ざした〝リベラル〟だった。
それは、「リベラリズム」の「ズム」へと決して結晶化しない、暑い夏の日に熱せられた軒先に打つ、涼やかな打ち水のような〝リベラル〟だった。
諦めること、割り切ること、逃げること、戦わないこと
りゅうちぇるは、2021年に『こんな世の中で生きていくしかないなら』と題された著書を出版している。それは、このような書き出しで始まる。
「なぜ、生きているんだろう」 幸せなときは、そんなこと1ミリも思わないのに、つらいときは、考えてしまう。 自分の物差しで人と比べてしまい、自分の価値を自分で決めつけてしまう。
自分のことが、嫌いになる毎日。 自己判断でしかない自分の点数が、現実的に感じて、悲しくなる夜。 前向きな言葉が、すべて、綺麗事に聞こえる日もある。
自分より輝いている人は、眩しすぎるから、正直、見たくないときもある。
僕は、テレビでの発言やキャラクターから、「明るくてハッピーなりゅうちぇる」と思われているかもしれない。なんに対しても前向きで、悩みなんてかけらもないように見えているかもしれない。
でも僕は、基本的にこの世の中はつらいことばかりだと思っている。 (……)
それでも、僕たちはこんな世の中で生きていかなくてはならない。だから僕は、いくつかの武器を身につけた。
それは、 諦めること、 割り切ること、 逃げること、 戦わないこと。
ガラス細工のように繊細で脆い感受性と卓越した美意識を備え、性においても活動においても政治においても既製の社会的枠組みに縛られずに軽やかに自由に生きようとしたりゅうちぇるにとって、この世の中はさぞかし生きづらかったことだろう。
そんな彼が身につけた〝処世術〟が、「諦めること、割り切ること、逃げること、戦わないこと」だった。
「防衛力増強」、「反日」、「ヘイトスピーチ」……。
無骨で好戦的で勇ましい言葉が飛び交う時代のなかにあって、なんと控えめな、不器用な、そしてせつない教訓なのだろう。あるいは〝平和の処方箋〟といってもよいのだろうか。
多様性を煙たがる日本の反知性主義者たちはりゅうちぇるを見習いなさい
「多様性」をうっとうしがり、「個性」をけむたがり、「レッテル貼り」を好み「排他的愛国主義」を声高に叫ぶ……そんな反知性主義とそれに根ざす理不尽な暴力が大手を振ってまかり通る目下の日本で、彼がそのもとでかろうじてみずからを支えていたところの、慎ましすぎる処世術は、無惨に踏みにじられ、無力さを痛感させることもあっただろう。
そんなとき、「なぜ、生きているんだろう」という、みずからの存在意義そのものを疑問に付す思いが、再び心をよぎってもおかしくない。それがふと、彼の背中を押したのだとしたら……。
りゅうちぇるの、マイノリティとマージナリティの土壌に美しく芽吹いた感受性に、もう少しの間この世界をゆだねておきたかった、と思う。
この事件に、りゅうちぇるが生きていたらどうコメントしただろうか?
この問題に、どう切りこんだだろうか? そんな感慨が胸中を去来する。
「君は悪から善をつくらなければならない。なぜならこの世には悪しかないのだから」。
アンドレイ・タルコフスキーの映画『ストーカー』のなかで、詩人がつぶやく警句である。
「この世の中はつらいことばかりだ」としても、デリカシーやシンパシーや優しさが、少なくとも自分の生きる場所を「好き」や「楽しい」に変えてくれる、そう教えてくれたのがりゅうちぇるだった。 心よりご冥福をお祈りしたい。