コロナの感染拡大を”見える化”する「下水疫学」の世界
2023年09月06日取材・文/川喜田 研 イラスト/iyo画像/時事通信社
ウンチによると、現在「第9波」真っただ中ってホント!?
周りでちょこちょこ陽性者が出ているし、コロナの再流行を感じてはいるけども、”第9波”って騒ぐほどなの…?
5類移行により全数把握から定点把握になりコロナの感染状況がわかりづらくなっている中、どうやら下水を流れるウンチを検査したら第8波のときよりもヤバい数値になったそう! ウンチによると、現在”第9波”真っただ中です!
■山梨県も仙台市も第8波並みの数値
新型コロナの5類移行以降、毎日の新規感染者数が公表されなくなり、コロナに関連したメディアの報道も激減している。そのため、イマイチ実感が湧かないが、実はこの夏、新型コロナウイルスの”第9波”は急激に拡大しているという。
もちろん、ワクチン接種による「重症化予防効果」や「オミクロン株の弱毒化」のおかげで、感染後に重症化するケースが大幅に減った今、単純な感染者数だけで、以前のように大騒ぎする必要はないのかもしれない。
だが、第8波のときもそうだったように、高齢者や基礎疾患がある人など、いまだに重症化リスクの高い人がいるのも事実。
とはいえ、いまさらガチガチの感染対策に戻すのは現実的に考えて難しいので、その都度、実際の感染状況や個々のリスクに合わせて、日常の感染対策を適切に”上げ下げ”するというのがベストな気がするが、その感染状況はどうやって把握すればいいのか?
そこで今、注目されているのが、下水を分析して、その地域の感染状況を推測するという「下水疫学調査」だ。東北大学が主導する「下水情報徹底活用プロジェクト」のリーダーを務める佐野大輔教授はこう語る。
「下水疫学調査というのは、わかりやすく言えば下水を使った”街の検便や検尿”です。人の検便や検尿は、その人の病気など、個人的な健康状態を調べるために使いますが、都市の下水には日々、その地域に暮らす人々の排泄(はいせつ)物が流れ込んできますから、その下水の中に含まれるウイルスや細
菌などの病原体を検査することで、その地域全体の感染状況や、流行している病原体の種類などの貴重な情報を得ることができるのです。いわば”都市の健康診断”ですね」
山梨県内にある5ヵ所の下水処理場で、週1回調査した流入下水中の新型コロナウイルスのRNA濃度の平均値(折れ線グラフ)と、実際の山梨県内における新規感染者数(棒グラフ)。見比べると相関関係があるのがわかる。2023年5月に5類移行を受けて全数把握されなくなった後も下水調査は続き、8月に入ってから異様に伸びている
それが新型コロナウイルスにも使えるの?
「これまでも、コロナの陽性か陰性かを調べるために、皆さんは唾液をPCR検査にかけてきたと思いますが、それと同様に、下水をPCR検査するワケです。こうした新型コロナ感染状況を把握するための下水疫学調査の活用や研究の取り組みは、オランダをはじめとしたヨーロッパや、アメリカ、オーストラリアなどで広がっています。
もちろん日本でも行なわれていて、例えば山梨県で下水疫学調査をしている山梨大学・原本英司教授の研究チームによれば、下水から検出される新型コロナウイルスのRNA濃度はすでに第8波のピークを上回っています。この結果から、山梨県内では第8波を超える感染者数が発生している状況と考えることができます。われわれが宮城県仙台市内で行なっている下水疫学調査でも、8月28日~9月3日の仙台市内における新型コロナ新規感染者数の予測値は1万86人と、第8波のピーク時に迫るレベルで高止まりしています」
東北大学大学院工学研究科・佐野大輔教授
■一番ウンチが多い朝10時に採取する
では、実際にどのように下水を調査しているの?
「2年ほど前から東北大学が仙台市の協力を得て開始した『下水情報徹底活用プロジェクト』では、日量約30万tの下水を処理している仙台市内のとある下水処理場から、週2回、下水40mlを採取して調査しています。取ってくるのは下水処理場内で処理される前の”生”の下水です。この状態だと検査するには濃度が薄いので20倍に濃縮します」
未処理の下水を濃縮!? ただでさえニオイが強そうなのに、大丈夫なんですか?
「下水を濃縮すると、けっこうエゲツナイものになるんじゃないかと想像する方もいるかもしれません(笑)。しかし、下水のニオイ成分は濃縮されづらく、濃縮操作の過程で捨てられてしまうので、実は濃縮後の下水のほうが臭くないんです。これをPCR検査にかけることで、下水中に存在していた新型コロナウイルスの濃度を計測します。その結果と、実際に報告された新型コロナの新規感染者数の相関関係をAIに学習させることで、下水中で検出されたウイルス濃度から、仙台市内の実際の感染者数を推計するというシステムを作ったのです」
ウイルス量がわかるだけでなく、採取したウイルスのゲノム解析も可能な上、特定の変異株に特有の遺伝子の塩基配列を見つけ出すことで、流行している変異株の種類もわかる
下水疫学調査を使った仙台市の感染者数予測値などの情報は東北大学の『下水ウイルス情報発信サイト』で公開されている。でも、下水にはトイレからの糞尿(ふんにょう)だけでなく、生活排水や雨水などいろんなモノが流れ込んでくる。
特に、雨が降れば下水に流れ込む水の量も増えるので、下水の濃度も変わるはず。1ヵ所の下水処理場から取ってきたコップ1杯程度の下水を分析して、仙台市全体の感染者数を推測するなんて、本当に可能なんですか?
「当然、下水の状態は天気や時間帯によって変動します。それをなるべく軽減するために、私たちは必ず朝10時に採取しています。というのも、その下水処理場に下水を送る地域の中で、最も遠い場所から流れてくるまで3時間から4時間かかるんです。
朝6時から7時前後にトイレに行く人が多いのでは?と考え、人の便が多く流れつきそうな朝10時に下水の採取を行なっています。この時間帯だと、処理場に近い場所に住んでいる人の便は取り逃がしているかもしれませんが。
また、雨が与える影響に関しては、雨による下水流量の変化を、感染者数の推計プログラムの要素のひとつとして組み込む方法もあります。ただ、これに関してはやはり難しい部分もあり、あまり良い結果が出ていません。われわれはそれを導入せずに、よりシンプルな方法を選んでいます」
今年5月からは5類移行で日々の新規感染者数が公表されなくなったため、今は定点観測に指定された医療機関の感染者報告数を基に、現在の感染状況を推測するしかないが、佐野教授らの下水分析による仙台市の感染者数予測値は、定点観測が示す感染者数の増減ともきちんと連動しているという。
「下水中の新型コロナウイルス濃度はさまざまな要因で変動してしまうものですが、それでも実際の感染者数の推移に近い推計ができている。コロナの感染拡大の定点把握方法のひとつとして十分に信用できると思います」
■コロナだけでなく糖尿病や違法薬物も
佐野教授が下水に含まれるさまざまな情報を公衆衛生へと生かす「下水疫学調査」の研究に取り組み始めたのは、今から20年ほど前のこと。
「下水疫学調査は当初、WHO(世界保健機関)が主導する形でポリオ(小児麻痺)が根絶されていない国々などで活用されていました。私もコロナ禍の前は、2003年頃からノロウイルスという胃腸炎を起こすウイルスの感染状況を下水で調べる研究を行なっていたんです。
一般に下水というと汚いととか臭いとか、ネガティブなイメージを持つ人もいるかもしれませんが、下水は公衆衛生に役立つ情報の宝庫です。上手に活用すれば、わずかな下水から、その地域のコロナの感染状況を推測できるだけでなく、採取したウイルスのゲノム解析や特定のコロナ変異株に特有の遺伝子の塩基配列を見つけ出すことで、どんな変異株が流行しているのかも知ることができるんです」
今、急激に広がっているといわれるオミクロンXBB系の新変異株「EG.5」(通称エリス)や、一気に45ヵ所もの遺伝子変異を獲得し、WHOが監視対象に指定したBA.2.86など、次々と新たな変異株が出現しているが、こうした変異株の広がりも、継続した下水の監視でキャッチできる可能性が高いという。
「ちなみに症状が現れない無症候の感染者も存在する新型コロナの場合、症状がないため医療機関を受診せず、検査も受けていない人の感染は確認されないケースも多いですよね。
そのため、PCR検査で確認された新規感染者数は、(無症候者も含む)実際の感染者数よりも少ない可能性が高いのですが、下水にはそうした無症候の感染者の排泄物の中のウイルスも流れ込むので、より実際の感染者数に近い推計ができる可能性もあります」
確かに……!
「また、下水疫学調査の対象となるのはウイルスや細菌による感染症だけではありません。例えば、私が今取り組んでいることのひとつは、下水中に含まれる尿由来のタンパク質を調べることで、その街や地域にどのくらいの糖尿病患者がいるのかをリアルタイムで推計すること。これが可能になれば、そのデータを自治体の保健行政が健康指導などに生かすことができます」
佐野教授によると、他国では下水疫学調査の手法を警察が使うこともあるという。
「例えば、アメリカでは、違法なドラッグが使用されている地域の下水を調査して、違法薬物の取り締まりに生かしていました。その検査システムを作って警察に販売したのは、とあるベンチャー企業だったのですが、その企業がコロナウイルスの分析も手がけるようになり、大幅に業績を伸ばしたそうです」
■なのに増えない下水疫学調査する自治体
下水を調べることで、コロナから糖尿病、違法薬物まで検出できるというのはわかったが、下水疫学調査の強みはほかにもある。
「もちろんはじき出される感染者数はあくまでも推計でしかないので、その地域の大まかな感染状況しかわかりませんが、それでもメリットとして大きいのは、調査が感染状況に左右されないこと。
新型コロナの感染拡大時には時に数万人、数十万人単位のPCR検査で感染状況を把握していましたが、下水を使えば、コップ1杯程度の下水のPCR検査で推計できる。これはコスパの点で非常に魅力的です。また、労力が変わらない分、感染拡大が落ち着いても同じ検査を継続しやすいので、ある程度のスピード感でキャッチできる可能性があります」
ちまたでは新型コロナの5類移行後、なんとなく「もうコロナ禍は終わった」という雰囲気が蔓延(まんえん)し、感染状況に関するさまざまな監視体制も大幅に縮小されている。
だが、その一方で、新たな変異株が次々と出現。この先、予期せぬ状況の変化が起きたときにもキチンと対応するためには、やはり、リアルタイムに近い形で常にコロナの感染状況や、新たな変異株の出現を監視する体制が必要だろう。
そんなときこそ下水疫学調査を使ったコロナの監視はその有力な選択肢のひとつだと思うのだが、こうした取り組みは現時点でどのくらい全国に広まっているのだろうか?
「実は、昨年度までは政府の内閣官房が主導する下水調査のプロジェクトがあり、全国で26の地方公共団体が参加していたのですが、そのプロジェクトは昨年度末までで終了したので、今は仙台市や札幌市、石川県の小松市、山梨県、神奈川県など、下水調査の結果を公表しているいくつかの自治体以外は、継続して調査しているのかどうか、外からはわからない状況です。
少なくとも、調査を行なっている地方公共団体の数が昨年度より増えていることはないのではないかと思います」
下水処理場は全国に2000以上あるが、下水疫学調査をする自治体は数えるほど(実用化に向けた実証実験が行なわれた荒川水循環センター)
下水疫学調査の活用には長期的なデータの積み重ねが必要だ。せっかく内閣官房が主導して始めた下水調査のプロジェクトを、1年足らずで打ち切りにしてしまったなんて……。
「下水疫学調査の実行には、やはり地域の保健行政の一翼を担う保健所を管轄する自治体の判断が重要ということかと思います。その意味では、1年という短い期間だったとはいえ、下水疫学調査を行なったことがなかった自治体にとっては、どのようなものかを知る貴重な機会になったものと思います。
ただし、下水疫学調査の結果は対象とする下水や都市の特性にも大きく左右されるので、そうした取り組みを全国規模で広めるためには、下水疫学調査の方法や、得られたデータや推計結果の活用の仕方などについてのガイドラインが整備される必要があります。
下水疫学調査の方法に関するガイドラインは国土交通省が作成していますが、得られた情報の活用方法など、まだまだ国や自治体と協力して解決していくべき課題も多いというのも事実です。
私たちとしては、単に下水中のウイルスを調査し続けるだけでなく、それを感染者数の推計など、市民の生活に役立つデータとして生かすことができる状況を整えたいと考えていますし、今後の感染症対策を考える上でも、下水疫学調査が持つ可能性は非常に大きいと思います」
コロナの存在を見て見ぬふりするのではなく、下水疫学調査などをフル活用しながら、最低限の監視体制を維持したほうがいいのでは?
●佐野大輔(さの・だいすけ)
東北大学大学院工学研究科教授。土木工学専攻。2022年、東北大学工学研究科下水情報研究センター長就任。研究分野は環境水質工学、公衆衛生微生物学など。大学のある宮城県仙台市内で下水疫学調査を行なう