日航機墜落事故から38年 走り書きの遺書、必死に耐えた涙 当時警察学校生・斎藤警部補が振り返るあの日:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)
日航機墜落事故を振り返る斎藤警部補=高崎北署で
航空機単独事故としては世界最多の乗客、乗員520人が犠牲となった1985年8月12日の日本航空ジャンボ機墜落事故から38年。群馬県警高崎北署刑事課長代理の斎藤伸之警部補(57)は、警察官としての歩みを始めた直後、事故に向き合った。「あのときの経験が警察官としての自分に大きな影響を与えた」と振り返る。(小松田健一)
斎藤さんは沼田市出身。同年4月、県警に採用されて警察学校で警察官としての基本を学んでいた。事故当日は、盆休みで実家に帰省中だった。事故発生の一報が伝わって間もなく、教官から電話がかかる。県警総動員で事故対応に当たるため、学校の生徒も駆り出されたのだ。
高卒者と大卒者で約60人いた生徒は校内で3日間待機後、8月16日に出動する。斎藤さんは遺体仮安置所になった藤岡市民体育館の屋外で交通整理の任務を与えられ、炎天下の屋外に立ち、次々と訪れる遺族や報道陣の対応に追われた。
墜落現場の御巣鷹山にも登った。同期生たちと山の斜面へ横一列に並び遺留品の捜索、回収に当たった。土がえぐられ、木が消えた山肌の様子に墜落の衝撃のすさまじさを実感した。
群馬県警は墜落現場となった御巣鷹の尾根で遺留品などの捜索、収容に当たった。当時はヘリコプターを所有しておらず、写真にも応援に来た愛知県警の機体が写っている=上野村で(群馬県警提供、撮影日不明)
間もなく警察学校の講堂が遺品保管所となり、遺族が訪れた。そこで、忘れがたい光景を目撃する。手帳に走り書きされた「パパは本当に残念だ きっと助かるまい」「ママ、こんな事になるとは残念だ さようなら 子ども達のことをよろしくたのむ」という遺書を目にした子ども連れの女性が泣き崩れる姿だ。
最期まで家族を思いやる気高さを示した遺書は、事故に関するその後の報道でしばしば引用される象徴的な存在となる。案内役の警察官は別にいて自分は後方で控えるだけだったが、こみあげる感情をこらえきれなかった。しかし「警察官は泣いてはいけない」と思い、必死に耐えた。
「安定した公務員」という理由で就職したが、そうした考えは一瞬で吹き飛んだ。「人の生死に向き合う仕事なのだと思い知りました。今もあのときのことを思い出すと、こみ上げるものがあります」
警察学校卒業後は交番や機動隊勤務を経て刑事畑に長く身を置き、さまざまな事件に当たった。その中には、悲惨な事件もあった。遺族に寄り添うことの大切さを、あの夏の経験から学んだ。「今であれば、被害者と共に泣く警察官がいてもいいことが分かります」