昔から変わらない日本人「最大の欠点」の正体…「原発事故・精神科病院・日米関係」で露呈した深刻な構造(現代ビジネス) – Yahoo!ニュース
「書き言葉」と「話し言葉」
現在、精神分析的な思考法は、そこに妥当性が認められる場合でも、その内容に厳密さが乏しいとして評価されないことが多い。
一見無関係な出来事の中に、隠された構造が反復されているのを見出そうとするのが精神分析的な解釈であるが、強引なこじつけであると理解される場合もある。
「背後にある構造」について定量的に評価することは容易ではなく、それについての説明を聞いても、その真偽を統計的に判定できないことが多い。
しかし、人間が行う思考も、現実の世界に有効に働きかけるための道具であると割り切れば、「どこに問題があるのか」に見当をつけるための最初の段階で、おおざっぱな類似を指摘することも役に立つ。
厳密な論証に耐えうる説明を細部にまで張り巡らすことは、いよいよ仕上げという段階では必要だろうが、最初からそれをすべてに求めることは、考えを先に進めるためには効率が悪すぎる。
以下に進めるのは、そのようなおおざっぱな議論であることを最初にお断りしておきたい。
現在の日本社会で起きていることをいくつか並べて、その全部に同じような構造が現れていることを指摘するつもりである。
そのようにして、おおざっぱに問題のある場所を示し、そこに興味を持つ人が増え、その先に今よりも厳密な議論ができるようになることを願っている。
人間の言葉を「書き言葉」と「話し言葉」に分類する場合がある。
「書き言葉」の特徴は、その言葉が話された場所に限定されない永続性を持つことであり、そのために論理の一貫性が重要となる。
それに対して「話し言葉」は刹那的で、論理的であることの重要性は低い。
その場での影響力が強いことこそが重要で、話の内容以上に、口調であるとか雰囲気に、より重要な価値が認められる。
「書き言葉」を偏重して「話し言葉」のニュアンスを理解できない人々の問題として、近年では発達障害(自閉スペクトラム症)が注目されていることを指摘しておくのも意味があるだろう。
「日本的」な社会や心のあり方はその逆で、「書き言葉」への嫌悪と拒否、「話し言葉」の偏重がその特徴だと考えている。
現在の苦境にある日本においても、アニメのような産業は有力なコンテンツであるが、「話し言葉」を重視する文化がそれを支えていると書いても、おおざっぱには間違っていないだろう。
登場人物や背景の絵の描き方、そのセリフの口調やトーンに徹底的にこだわる姿勢は、西欧のような「書き言葉」こそが大事で「話し言葉」を軽く考える文化の中からは生まれてこない。
谷崎潤一郎が、日本では書き言葉においても、視覚的効果や音楽的効果を意識するべきであると論じた『文章読本』のことが思い出される。
そんなことを考えている私の文章が、アスペルガー的な悪文になってしまっていたとしても、そこはどうかご容赦をいただきたい。
社会的な問題へのあらわれ
このように「話し言葉」を偏重して「書き言葉」を軽んじる日本人の心や社会の構造は、どのような現れ方をしているのだろうか。
最も問題なのは、「論理的な整合性のある永続的な仕組みをつくることへの熱意が欠如している」ことである。
論理的な結論は面白くない。
それよりも、劇的な、どこかにスケープゴートを見つけて、もやもやした感情のカタルシスが起きるような展開ばかりが求められてしまう。
しかしそのようなことをくり返しても、社会としての経験や知恵の蓄積につながりにくい。
本来ならば、このような国民性を意識した上で、それを良い方向に導いていくのが政治に期待される役割だ。
しかし現在の日本では、その日本人の特性と対決する姿勢を示すものは少なく、それに迎合しつつ依存し、それを助長する行動を示すものが多い。
2011年に国策として推進されていた原子力発電所で、大きな事故が発生し、その後処理にはまだ膨大な時間と手間がかかることが予想されている。
そして2023年の現在、貯まっていくばかりの処理水を太平洋に放出することの是非が論じられている。
これに強く反対する人のモチベーションの一つは、「国策」が十分なチェックを受けることなく暴走し、大きな事件や事故が起きる事態の再発を防ぎたいというものだ。
そのモチベーションは十分に理解できる。
その時に、「廃炉」や「賠償」という原発事故後の処理に外せない事業を、「東京電力」という営利活動が本質の民間企業に担当させ続けることは、合理性を欠いているように思える。
当たり前であるが、「廃炉」も「賠償」も利益を生む活動ではない。
それを営利企業が担い続ければ、どこかで歪みが生じるだろう。
あらゆる組織は、その組織の「本質」とそぐわない事業を担うことに不向きである。
現状を続ける方が、国にとって便利であるというのは想像できる。
「廃炉」も「賠償」も、どうしても誰かからの不満や批判の対象となりやすい。
国が直営でそのような事業を担い、その権威に傷がつくのは困るという計算もあるだろう。
言葉は悪いが「汚れ役」を東京電力が担い続けてくれた方が都合がよいと考えているのではないかと、どうしても勘ぐってしまう。
しかし、安全に関する信頼性こそが重要な事業を実施する体制が、そのような「公」と「私」がズルズルベッタリと野合しているもので良いのだろうか。
危惧されることの一つは、「外には公的にきれいごとを言うが、内部の弱い所にどんどんと歪みが押しつけられていく」振る舞いが横行することである。
東京電力の経営層から地元の社員、さらに協力企業へと事業が展開していく中で、系列の末端近くに位置する職員への待遇が過酷になってしまう可能性を、否定することは難しい。
そして、そのような力学が働く世界で長年過ごし、生き残って影響力を発揮するポジションに就いた偉い人たちが、安全性と社会への信頼を重視する価値観を身につけているか否かという点にも、疑問が生じる。
そもそも、東京電力と国の規制当局との関係がズブズブだったことが、原発事故の発生に大きなマイナスの影響を与えたと指摘したのが、国会の事故調査委員会の報告書の内容だった。
それなのに、そのような関係性のあり方を問題と考える議論がまったく盛り上がらないことは、残念でならない。
ここで主張したいのは、廃炉や賠償のような事業を民間企業が担当することには無理があり、形式を整えて国直轄の事業とすることが適正だということだ。
私は野口悠紀雄の『1940年体制-さらば戦時経済』という書物の内容に強い影響を受けている。
これから引用する部分は、以前に「あれだけの事故が起きてもなぜ日本は「原発輸出」を続けるのか」という記事でも参照したことのある、1937年に国会に提出された「電力国家管理法案」についての陳述の一部である。
くり返しになるが、もう一確認したい。
「民有国営なる国家管理の新方式は、かかる社会的背景において、国策の要求に促されて、発案せられたものである。これによれば、国有国営の場合に見るがごとき公債の増発を要せず、拡張計画において議会の掣肘を受けず、その経営活動において会計法の制約を蒙らず、あえて官吏の増員を要せず、また面倒なる国家報償の問題も生じないのである。もしも民有国営なる電力国営の新方式がその合理適切性を一般に認められて、国家の経済統制の基本方式となるにいたるならば、国家統制は急速に発展し、しかも合理的に完遂されるであろう」
野口によれば、この法案は紆余曲折を経ることになるが、その内容は戦後経済にも大きな影響を与えるようになった。
要するに、国策として行う事業を民間企業に行わせれば、議会対応が楽であるし、人件費も節約することができる、という主張である。
後に電力会社と規制当局がなあなあの関係になって事故が起きた展開を知っているものとすれば、ここでコストを削減したことが、後に事故の発生という途轍もなく高い代償を求められる事態となった悪影響を思わざるをえない。
同時にこれは、現在の日本経済を悩ませている「安い人件費」の問題につながる事柄である。
さらに確認するならば、この法の趣旨は、きちんとした「書き言葉」になる制度を整えるコストを削減し、ハイコンテキストの以心伝心で身内の中だけで通じる「話し言葉」で作業を進められるようにすることで、コミュニケーションコストがかからないようにして仕事を進めたいという、少なくない日本人に共通する心理が顕在化したものだと言える。
しかしここに、人、金、時間といったコストをかけないできたことが、現在の日本の様々な課題につながっていることを指摘したい。
日本の精神科医療の問題点
今年に入って、日本の精神科医療の問題点について、スキャンダラスな報道がなされることが続いている。
身体拘束のような人権侵害に該当する行動制限が、乱用されている疑いがあるという内容である。
2月24日にNHKが東京都八王子市にある精神科病院に対して取材を行った内容を公表した。
ここでは、行動制限のみならず、患者に対する暴行もあったことが報じられた。
当然、なぜこのようなことがくり返されるのか、という疑問が生じる。
そのような中で7月7日、東京新聞に精神科病院協会会長に対して行ったインタビュー記事が掲載された。
この記事の中で会長が展開していたのは、精神科病院で身体拘束が行われていることを是とする主張だったと理解してよいだろう。
会長が国連からの是正のための勧告を「余計なお世話」と切って捨てたことには賛成できないが、社会が本当に精神障がい者を受け入れる気持ちがあるのかと記者に問い返した場面には、共感してしまった。
いずれにしても、この会長の発言は、「話し言葉」の力で抑え込む部分が肥大した事例だと理解できる。
日本で精神科病院の問題点を告発する報道は、くり返しなされてきた。
1973年には朝日新聞の記者だった大熊一夫がアルコール依存症の患者であると偽って精神科病院に入院した体験を記した『ルポ・精神病院』が出版された。
1983年には栃木県内の精神科病院で、職員の暴行によって患者が死亡する事件が発生し、国際司法裁判所や国連が関与する事態となった。
それにもかかわらず、日本の精神科病床は増加した。
第二次世界大戦の敗戦から間もない1954年に行われた実態調査では、日本の精神科病床は3万程度しかなく、この時点では非常に少ないと考えられた。
ここで精神科病床を増やす必要が認識されたが、ここでも公的な病院を増やす余裕はないと判断され、民間の精神科病床が増えることとなった。
1968年に日本政府はWHOから専門家を招聘して実態調査を依頼し、入院治療から地域福祉への転換を示唆された。
この報告書は担当した医師の名を冠してクラーク報告と呼ばれている。
しかしこの報告書は実質的な影響を与えることはなく、精神科病床は増え続け、1990年代の前半には30万床を超えた(参考:公益社団法人精神科病院協会「我々の描く精神科医療の将来ビジョン」)。
くり返しになるが、日本の精神科病院のほとんどは民間病院である。
民間病院では、自らの組織を維持するための収入を確保しなければならない。
その場合に、入院患者の人権を保護するための仕組みづくり・職員教育に行える投資には限界が生じることが予想される。
重度の人権侵害が起こりうる精神科医療のルール・仕組み作り、適切な「書き言葉」を整備するための投資を、この分野でも日本は怠ってきたと言えるだろう。
1940年体制の下で、入院中心の精神障がい者についての「隔離収容」を中心とした政策を、原子力発電同様、「国策民営」で行ってきたことの帰結を、現在の私たちは見ているのである。
対米従属という問題
今回見てきたような「書き言葉」の軽視、内輪の「話し言葉」の影響力の拡大という問題について、さらに憂慮すべきなのは、この問題が時代を経るごとに日本社会で緩和されていくどころか、逆に年々深刻になっていることだ。
1970年前後の時点で、国内の精神科医療の問題点を検討するために、海外の専門家を招聘したような謙虚さを、現在の日本で認めることは稀である。
国会の原発事故調査委員会の委員長を務めた黒川清は、委員の中に外国人の研究者を含めるべきだと主張したが果たされなかったことを、その著書『規制の虜』で明らかにした。
最近では芸能界のジャニーズ事務所の性加害の問題で、国連人権理事会が調査を行う方針が示されているが、このことを恥と感じて関心を寄せる傾向は弱く、むしろ広末涼子の不倫に関するような、身内の論理のみで対処できるニュースの方が耳目を集めている。
政治に関しては、やはり安倍政権で公文書の管理に大きな問題があったことにも触れておくべきである。
そして最大の問題は、安全保障をめぐる日米関係だ。
古関彰一の『対米従属の構造』という著作の帯には、「『安保が第一、憲法は第二』の深層」と書かれている。
この本では「非核三原則」に反する日本国内への核兵器の持ち込みが認められていた「密約」など、広範な内容が扱われているが、その一部を引用したい。
国政の中心において、著しい「書き言葉」の軽視と「話し言葉」の際限のない影響力の拡大があり、それが年ごとに深化していることが分かる。
「2019年12月の海上自衛地の中東派遣は法律に拠らず、国家安全保障会議を経て閣議での決定のみに拠ったのであり、国会の承認など受けていない。」
「安全保障政策の基本と言われる『国家安全保障戦略』も、『防衛大綱』も、『日米安全保障宣言』も、『日米ガイドライン』も、いずれも国家のあり方が問われ、国民の生命にかかわる重要政策であるにもかかわらず、国会の承認など必要とされていない」
日本は国の中枢から末端に至るまで、公的な制度や仕組みなどの「書き言葉』を空疎なお題目とし、内輪の「話し言葉」の直接的な影響力ばかりに依存して組織や集団を運営する社会になっているのかもしれない。
その場合、裏で立場の弱いものに負担を強要することが頻発するようになり、結果として不正や手抜きが発生しやすくなる。
最近では、マイナンバーカードの導入をめぐる混乱にも、この要因がかかわっている印象がある。
この問題は公的機関ばかりではなく、民間企業にも現れる危険性が高い。
現在話題になっている中古車販売大手のビックモーターが成長した経営のあり方にも関係している。
社会学者の中根千絵が『タテ社会の人間関係』の中で、「「権威主義」が悪の源でもなく、「民主主義」が混乱を生むものでもなく、それよりも、もっと根底にある日本人の習性である、「人」には従ったり(人を従えたり)、影響され(影響を与え)ても、「ルール」を設定したり、それに従う、という伝統がない社会であるということが、最も大きなガンになっているようである」と嘆いた時よりも、この状況はさらに悪化している。
内輪の力関係しか信用できず、外部とコミュニケーションを行うことを可能にする言葉を持たない日本の個人と組織は、刹那的な空気に流されるか、あるいは一切外部と関わらずに旧套を墨守し続ける以外のあり方が困難で、それぞれ違いがある個人や集団が意見を交換しながら、共同して問題に取り組む社会を営むことが困難となっている。
その問題を乗り越えるためには、社会全体で共有可能な信用のおける「書き言葉」の蓄積を重視し、それを踏まえた対話が可能となることが目指されるべきである。
堀 有伸(精神科医)