「保護」名目で制圧され急死…「健太さん事件」から15年 「警職法改正」訴えて遺族・弁護士らが映画制作:東京新聞 TOKYO Web (tokyo-np.co.jp)
今から16年前の2007年、一人の男性が世を去った。5人の警察官に路上で取り押さえられ、直後に亡くなった知的障害者の安永健太さん=佐賀市、当時25歳=だ。
警察官は罪に問われたが最高裁で無罪が確定。警察官職務執行法で「精神錯乱」に陥った者の「保護」が認められていることがその理由の一つだ。
だが、障害特性が考慮されず、言動だけで精神錯乱とされる法自体を「時代遅れ」と批判する声は根強く、遺族や弁護士らが法改正を訴えている。(特別報道部・木原育子)
◆取り押さえた警察官は無罪
5人の警察官に取り押さえられ、直後に亡くなった知的障害者の安永健太さん。弟思いの心の優しい青年だった=「健太さんの会」提供
自転車の前輪と前かごがひしゃげ、事故の強い衝撃が伝わる。「結構ひどぅぶつかっとるもん」。健太さんの父、孝行さん(61)の佐賀弁が会場に響き渡った。
スクリーンに映し出された当時のままの自転車が、立ち止まったままの家族に重なる。健太さんの事件を30分にまとめたドキュメンタリー映画「いつもの帰り道で 安永健太さんの死が問いかけるもの」の冒頭シーンだ。
どんな事件だったか、まずは振り返りたい。
事件は2007年9月25日夕、佐賀市内の路上で、健太さんが障害者作業所から自転車で帰宅する途中に起きた。
訴状などによると、警察官は健太さんが蛇行運転していたとして、パトカーのサイレンを鳴らし、マイクで停止を呼びかけた。
突然のことに驚いたのか、健太さんは逆に猛スピードで直進し、停車中の原付きバイクに衝突。
「警察官に腕を振り回した」として、応援に駆けつけた警察官を含め、5人でうつぶせに取り押さえた。後ろ手に手錠をかけた時、健太さんの意識がなくなっていることに気づいた、という。
健太さんの顔の傷や目撃証言から警察官による暴行の疑いも浮上。孝行さんは08年1月、関わった警察官を特別公務員職権乱用等致死容疑で告訴した。
いったん不起訴になったがあきらめず、不起訴になった警察官を起訴できる「付審判請求」を佐賀地裁に提出。
真実を求める署名が11万人に広がるなど賛同の輪は全国に。付審判が開始されたケースは戦後わずか0.1%だったが、刑事裁判が始まった。だが、12年9月に最高裁判決で警察官の無罪が確定。その後の民事裁判も敗訴した。
◆「精神錯乱」なら取り押さえ認める警職法
事件をまとめた映画の試写会で、法改正の必要性を訴える藤岡弁護士(右から2人目)や日本障害者協議会の藤井克徳代表(同3人目)ら
取り押さえ行為は、警察官の職務を規定する警察官職務執行法(警職法)に基づく。3条に「保護」の条文があり、対象に「精神錯乱」とある。
だが、弁護団のメンバーだった藤岡毅弁護士はそもそもを問い直す。「『精神錯乱』とすれば、後ろ手に手錠をかけ、荒縄で足を縛っても『保護』として許される。これがまかり通るなら法自体がおかしいと言わざるを得ない」
知的障害者の中には、突然大きな声を出されたり、強引に押さえ付けられるとパニックになり、感覚過敏の人はむやみに触られると振りほどこうと必死になる。
「そういった知的障害者のコミュニケーションを理解できず、『精神錯乱』としてしまった」
藤岡さんら弁護士や遺族らは「健太さんの会」を設立し、現在警職法改正を求めて活動している。具体的には「精神錯乱」という表現の削除や、障害特性を理解する研修の義務などだ。
今回の映画制作もその活動の一環。映画は、ユーチューブで誰でも視聴できる(バリアフリー版は年明けに公開予定)。
試写会で藤岡さんは語気を強めた。「最高裁まで戦って負けた事件は多くあるが、この事件だけはどうしてもあきらめきれない」
◆警察に求められる障害者理解
実際、取り締まる側はどう感じているのか。
中部地域の40代の警察官は「一見して知的障害者だと分からない場合が難しい」と明かす。
子どもを見てニヤニヤしていた人や、警察官を見て急に逃げた人を職務質問した経験があるという。「知的障害者だとは頭に浮かばず、正直言って不審者だと感じた」
このように障害特性が警察官に「怪しい」と誤解され、知的障害者が「不審者」に間違えられるケースは少なくない。
この警察官は「受け答えで障害があると気付いた後は、相当気を使って対応した」と続ける。
ある警察幹部も「昔に比べて障害者に対する考え方は変わった。
階級別の研修でも、障害に応じて絵を描いて説明するなど、接し方を具体的に学ぶ機会がある」と変化を語る。
犯人役の署員(左から2番目)に対し、職務質問をする若手署員ら=5月27日、滋賀県の米原署で
「元刑事が見た発達障害」(花風社)の著書がある元警視庁警部補の榎本澄雄さん(47)は「統合失調症の人に職務質問した際、舌が回っておらず、服薬の影響か薬物犯罪か見極めが難しかった」と振り返る。
「職務質問は警察官の基本で、犯人検挙に向け努力を積む。だからこそ障害特性について、日ごろから見聞を広げておく必要はある」
親の会の「全国手をつなぐ育成会連合会」では前身の組織だった01年、警察庁の監修を経て、知的障害者の特性をまとめたハンドブックを作成。健太さんの事件後に、より詳細な新たな冊子を作った。
東京都手をつなぐ育成会理事長の佐々木桃子さん(65)は「あの事件で『健太さんはうちの子だったかも…』と思った保護者は多かった。警察官が冊子に目を通してくれていたらと思わずにはいられず、できる限り毎年、今も最寄りの署に届けている」と話す。
現場に出る前の警察学校の学生に、育成会の会員が障害特性について話をするカリキュラムがある県警もあるといい、佐々木さんは「2人目の健太さんを生んではいけない」と訴える。
少年非行などの調査研究を担う警察庁元心理技官で、上智大の伊藤冨士江・客員研究員は「刑事司法分野の障害者理解について日本はかなり遅れている」と指摘。
「警察は力での制圧を求められる場合がある組織だが、障害者対応などソフト面の技術向上にも目を向けなければ社会的理解は得られない」と語る。
◆「いつか警察組織も変わってくれる」と信じて
事件から15年。法改正を求める声が高まる背景には、今年9月の障害者権利条約に基づく国連勧告がある。
障害者団体が事前に提出したパラレルレポート(市民社会からの報告書)では、健太さんの事件などを列挙。勧告に「侮蔑的な表現の撤廃」が盛り込まれた。
健太さんが亡くなった日は、日本が条約に署名した日の3日前。日本障害者協議会の藤井克徳代表は「条約締結で障害関連法制に変化が見られたが、まだまだ不十分。健太さんの事件の真相究明は警職法改正だけでなく、障害者の人権や立法に新たな道を開く視点からも重要だ」と訴える。
障害者権利条約に詳しい立命館大生存学研究所の長瀬修教授(障害学)は、国連の審査を「健康診断」と位置付け、「日本社会の不健全な部分や課題が世界から指摘された。
国は、勧告を受け、健全な状態に変える責任がある」とする。今後は内閣府の審議会「障害者政策委員会」を通じて政策にどう反映していくかだとし、「耳が痛い指摘もあるだろうが、目を背けるとより不健康になる。日本社会は変わるチャンスを得たと捉えるべきだ」と話す。
突然息子を奪われた孝行さんは今、何を思うか。「こちら特報部」の取材にせきを切ったように話した。
「健太は、正義ん味方ん警察官が大好きじゃった。息子ん命ば奪うといて、あとは知らんってことはなか。だけん、息子ん名前で活動ば続けとる」とし、「障害のこと何も知らないで一方的に痛めつける。こういった事件は絶対根絶してほしか。こういう言葉、口に出し続ければ、いつか警察組織も変わってくれる」
◆デスクメモ
知的・精神の障害は、専門の医師でも時間をかけて判断するとされる。現場の警察官が「一見して分からない」「見極めが難しい」というのも分かる。ただ、「力での制圧」を良しとしすぎる傾向が、警察内にあるのは確かだろう。ソフトに事態を収める能力が評価される警察文化を。(歩)