なぜホテルは名前と住所を書かせるのか…日本のコロナ対策が「国民」より「病院」を優先する根本原因 厚労省の生い立ちを見ればすべてが解ける | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)
なぜ日本のコロナ対策は失敗続きなのか。医師で医療ガバナンス研究所理事長の上昌弘さんは「厚労省の生い立ちが影響している。ハンセン病からコロナまで、感染症への対策は、前身の旧内務省時代の価値観が色濃く反映されてきた。だから国民より病院を優先する対策になっている」という――。
コロナ対策の問題は「旧内務省的価値観」から紐解ける
コロナの夏の流行が始まった。沖縄県では、6月26~30日の間に、コロナ感染の拡大により13の公立学校が閉鎖したというし、札幌市の下水サーベイランスでは、すでに下水中のコロナウイルスの量は昨夏のピークとほぼ同レベルに達している(7月5日現在)。過去3年間、真夏に感染者は急増した。今夏も大流行することが予想される。
どうすれば、いいのか。私は、今こそ、過去3年間のコロナ対応を振り返るべきだと考える。本稿で論じたい。
わが国のコロナ対策の問題は何か。それは、厚労省が、患者より国家の都合を優先したことだ。病床逼迫を回避するため、37.5度の発熱が4日間以上の患者にしかPCR検査を受けさせなかったことなど、その典型だ。その後、幽霊病床が判明する。真相は闇の中だ。
医療は患者のためにある。なぜ、厚労省は、こんな対応をとるのだろうか。
わが国のコロナ対策を検証するには、ここまで掘り下げて議論しなければ、迷走の真相は見えてこない。その際、厚労省の歴史を考慮することが重要だ。
厚労省の政策決定に影響する内在的価値観は、その「生い立ち」の影響を強く受けているからだ。厚労省の前身である厚生省は昭和13年に内務省から分離・独立した。厚労省を理解するには、内務省を理解しなければならない。
官僚のポストだった
内務省は、征韓論を端緒とする明治6年の政変をきっかけに設立された役所だ。この政変を契機に、西郷隆盛が野に下り、4年後の西南戦争へと繋がる。岩倉使節団の一員として欧米歴訪から帰国した大久保利通が初代のトップ(内務卿)に就任するが、内務省を通じた治安維持の強化を目論んだと言われている。次官、警保局長、警視総監を「内務三役」と称したことなど、その象徴だ。
大久保が治安維持と並んで、力を入れたのが地方分権だった。西南戦争など、廃藩置県で職を失った士族の反乱を抑制することが念頭にあったのだろう。
明治11年、大久保は「地方之体制等改正之儀」を上申し、内務省は全国の府県知事の任命権を握る。その後、内務省で地方行政を担当するのは地方局の仕事となる。府県知事は、中堅官僚のポストだ。東京から派遣される。2021年に公開された映画『生きろ 島田叡 戦中最後の沖縄県知事』は、この辺りの状況を上手く描いている。
この頃の人事制度の影響は現在も残っている。47都道府県の知事の33人が元役人で、うち25人が東京大学出身だ。地方自治が叫ばれる現在も、官僚支配が続いている。官僚出身知事の多くは課長補佐級ポストのころに都道府県に出向し、その後、知事になる人が多く、事務次官や局長経験者は少ない。戦前同様、「軽量級」ポストであることは興味深い。
東大剣道部は内務省と二人三脚で発展した
余談だが、筆者は東京大学在学中、運動会(他大学の体育会)剣道部に在籍した。東大剣道部は、明治20年に撃剣会とし発足している。初代師範の榊原鍵吉は元幕臣で、直心影流の使い手だ。明治維新以降、逼塞していたところを、新政府に登用される。明治10年の西南戦争の田原坂の戦いで、川路利良大警視が率いる抜刀隊の活躍を受けて、警察が剣術を奨励するようになったからだ。明治政府には、これ以上の反乱を防ぐため、失職した武士を警察官として雇用するという思惑もあったのだろう。
その後、東大剣道部は、内務省と二人三脚で発展する。
榊原に始まり、現在に至るまで、東大剣道部の師範は警視庁剣道指導室主席師範の指定席だし、東大剣道部は多くの内務官僚を育てた。戦後10人が全日本剣道連盟の会長に就任しているが、8人が東大剣道部OBで、戦後の幣原内閣で検事総長、吉田内閣で司法大臣を務めた初代会長の木村篤太郎をはじめ、多くが内務省関係者だ。
現在も、東大剣道部卒業生の就職先として多いのは、総務省、警察庁、国土交通省、厚労省などの旧内務省系の役所だ。財務省や外務省は少ない。私の知る限り、外務省に進んだOBはいない。これが、東大剣道部の「内在的価値観」だ。
日本初の総合的衛生制度「医制」は文部省の所管だった
話を戻そう。府県知事の官選制が確立すると、内務省の中心は警保局と地方局となる。では、医療はどのような扱いだったのだろうか。
明治政府が医療行政の整備に着手したのは明治7年だ。日本初の総合的衛生制度である「医制」を交付する。中心となったのは、大久保らとともに岩倉使節団の一員として海外を歴訪した長与専斎だ。長与は大村藩に代々仕える藩医の息子で、緒方洪庵の適塾や長崎の医学伝習所などで西洋医学を学ぶ。文部省医務局長や東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長などを兼務した明治の医学界の大物だ。優れた医学者だったようで、「衛生」という言葉は、Hygieneの訳語として長与が採用したと言われている。
事態が迷走しはじめるのは、翌8年に「医制」の所管が、文部省から内務省に移ったころからだ。明治16年に内務卿に就いた山縣有朋と長与は肌が合わなかった。山縣は、衛生局次長に、軍医本部次長の石黒忠悳を充てる。
石黒は、現在の福島県梁川生まれで、幼少期に父母を亡くす。苦労して、幕府医学所を卒業し、医学所句読師となるが、明治維新で職を失う。その後、松本良順の紹介で、兵部省に入り、草創期の軍医となる。
苦労のなせる業か、石黒は処世術に長けていたようだ。山縣有朋だけでなく、薩摩閥の軍人のトップである大山巌や児玉源太郎からもかわいがられたという。一方で、部下には厳しかったらしい。森鴎外との確執は有名だ。
「隔離一辺倒」の感染症法は警察権力の名残
警察権力を握る内務省の内情は複雑だ。
衛生行政が、内務省に移ったことで、さまざまなしがらみが生まれる。特記すべきは、明治19年には衛生局が設置されるが、それ以前から存在した警保局が所管した衛生警察行政の影響を強く受けたことだ。
警保局は、明治44年の大逆事件を機に、思想警察である特別高等警察(特高)を設置する。大正14年に制定された治安維持法を所管する部局だ。当時、警保畑の内務官僚は、衛生警察と特高をローテーションした。
これがわが国の公衆衛生の雛型の一部である。
現在も、さまざまなところに影響が残っている。ハンセン病からコロナまで、患者の権利の保障はそっちのけで、隔離一辺倒の感染症法など、その典型だ。
この対応は、様々な差別を生み出した。昭和49年に公開された野村芳太郎監督の『砂の器』は、ハンセン病の差別を描いたものだ。野村監督は、京都生まれで、父親は日本映画の草分け的監督である野村芳亭だ。マリア会が設立した暁星小学校、中学、そして慶應義塾大学を卒業している。第二次世界大戦ではインパール作戦に従事している。野村は内務省・帝国陸軍とは肌が合わなかっただろう。『砂の器』では、様々な場面で、内務省や帝国陸軍への批判が盛り込まれている。
ホテルに泊まるのに名前と住所を書くのはなぜか
問題は感染症法だけではない。旅館業法も同様だ。
同法では、ホテルに宿泊する際には、氏名と住所を記さなければならないと規定されている。その目的の一つは伝染病の蔓延を防ぐことだ。集団食中毒や伝染病などが発生した場合に、感染ルートをさかのぼって探索できるようにするためとされているが、職場、学校、交通機関、飲食店と旅館を区別してあつかう合理的な理由はない。
このような法律が残ってきたのは、使い勝手がいいからだ。警察に追われる人が実名でホテルに泊まる訳はない。戦前から現在に至るまで、別件逮捕の理由に使われている。平成7年のオウム事件で、偽名で宿泊した信者が逮捕されたのは、その一例だ。こんな「別件逮捕」が可能なのは、内務省時代の衛生警察の名残である。
別件逮捕は、これだけではない。
知人の元厚労官僚は「感染症法の届け出義務違反は、今でも警察から要請されれば情報を提供する。別件逮捕の理由で使われる」という。この人物は、某県に出向していたときに、地元の警察から照会を受け、情報を提供したことがあるらしい。
学校健診も国家の戦争推進が目的だった
わが国の歴史を振り返れば、医療・衛生行政で、国民の健康より国家の都合を優先した事例は枚挙に暇がない。
前述したように、厚生省は昭和13年、内務省から分離した。陸軍省の要請を受けてのもので、筆頭局は体力局だった。国民体力法を制定し、徴兵制度を推し進めた。長らく、学校健診で座高が測定されたのは、当時、重心が低い、つまり足が短い人ほど兵隊に向いていると帝国陸軍が考えたからだ。学校健診まで、健民健兵政策の一環だった。
敗戦後、厚生省は、陸軍省や海軍省を吸収する。そして、陸海軍病院は、厚生省が所管する国立病院と看板をかけかける。それまで、国家の戦争推進を目的に掲げた官僚組織が、患者のための病院に変わるのは難しい。
補助金コロナ前の28倍も、病床受け入れ率は65%
コロナ禍中に贈収賄事件で警視庁捜査二課が立件した国立病院機構は、その典型例だ。
2021年度には、コロナ前の28倍の1317億円の補助金を受け取ったが、第7波のまっただなかである2022年8月3日現在のコロナ病床の受け入れ率は即応病床と届け出たものの65%に過ぎず、国民の期待を裏切った。
コロナ禍での厚労省傘下の病院・研究機関では、国立国際医療研究センターや国立保健医療科学院でも、同様の不祥事が立件されている。おそらく氷山の一角だろう。組織全体が腐敗していると言っていい。これが、わが国のコロナ対策を仕切った厚労省直轄の組織の現状だ。
コロナ禍で、厚労省や周囲の専門家は、「日本の病院を守るため」との理由で、国民が検査や医療を受ける権利を制限した。患者と国家の間で軋轢が生じれば、医師は患者の味方をしなければならない。これはギリシャ・ローマ時代以来のプロフェッショナルとしての医師の責務だ。こんなことを真顔で言う医師は、世界にいないと言っても過言ではない。彼らが、こんなことを言って平気だったのは、国民の権利より、国家の安定を優先するのが、旧内務省以来の日本の公衆衛生行政の内在的価値観だからだろう。
「内務省」を脱しない限り医療の進歩はない
もちろん、厚労省や周囲の専門家にも、このような状況に疑問を抱く人は多いだろう。ただ、個人的な良心から、「正論」を主張すれば、出世できない。厚労省に残りたければ、「内在的価値観」を受け入れるしかなく、嫌なら辞めるまでだ。
近年、厚労省の若手官僚が辞めるのは、「自分の仕事が嫌になるから(元厚労官僚)」という。
メディアは官僚の早期退職を激務のせいばかりにするが、問題の本質は、そこにはない。
わが国の厚労行政の問題は根が深い。志ある政治家や官僚に大改革を期待しても無駄だ。かの安倍政権、菅政権でもコントロールできなかったことは示唆にとむ。
政府は、その国の国民のレベルを反映する。厚労行政に問題があるのは、わが国の国民に問題があるからだ。「日本人は12歳」のままといっていい。
では、どうすればいいのか。まずやるべきは、問題の本質を歴史に遡って考え、社会で議論すること、そして、身の丈にあった医療を、自分たちで作り上げることだ。国民の統制を最優先する「内務省」にお任せしている限り、日本の医療は進歩しない。