原発事故で失った「ふるさとの価値」 公害研究者、福島12年の問い

原発事故で失った「ふるさとの価値」 公害研究者、福島12年の問い | 毎日新聞 (mainichi.jp)

住民がその言葉を口にする度に重みが増すように感じてきた。

「悔しい……」。

2011年3月の東京電力福島第1原発事故直後、避難を余儀なくされた住民は皆、喪失感をあらわにした。

福島を100回以上訪れ、聞き取り調査を続けた大阪公立大教授の除本理史(よけもと・まさふみ)さん(51)は、ある問いが頭から離れなかった。

「ふるさとの価値とは何か」と。

 公害の被害実態と賠償、地域の回復を研究テーマに東京経済大で教壇に立っていた。

11年4月からは、公害研究で実績のある大阪市立大(現大阪公立大)に籍を移し、熊本・水俣や大阪の公害を研究する計画だった。

 大阪への引っ越し準備をしていた時、東日本大震災が発生。

福島第1原発の原子炉建屋で水素爆発が相次ぎ、放射性物質の汚染が広がった。

一橋大大学院の先輩で、原発のコストに詳しい大島堅一立命館大教授(現龍谷大教授)から「国内の原発による初めての大規模な汚染になる。今こそ、公害の研究者が蓄積を生かす時ではないか」と行動を促された。

「原子力の門外漢」だったが、見逃せない大惨事だ。

すぐさま原発関連の法律や文献、原発事故を報じる新聞記事などを集め、必要な知識を頭に入れていった。

中間指針の賠償「見合わない」

 震災2カ月後の5月に福島県に入った。

8月には、原発から30~50キロ離れていても全村避難となった飯舘村に暮らしていた80歳の男性と対面した。

「一生懸命村をよくしよう、楽しい村にしようと、みんなで本当に頑張ってきた。牛乳も飯舘牛も世間に広がってきたところだった。それなのにこうなるなんて、諦めきれない。とんでもない……悔しい」。

感情を抑えた口調だったが、男性の無念さは真っすぐに伝わってきた。

 飯舘村の歩みも調べた。村は1989年から、若い女性を欧州に派遣する研修事業を始めるなど地域作りの担い手を育んできた。

受け継がれてきた暮らしの中に、村の未来を方向付けるヒントを探っていた。

 そうする中で村は「スローライフ」に価値を見いだしていた。

「丁寧」「大事に」を意味する方言「までい」を取り入れて、村おこし事業を「までいな村おこし」と呼んだ。

男性が希望を託していた牛乳や飯舘牛は、夏場に冷害に襲われやすい高原の気候にも適応できる産品として生み出されてきたものだった。

 被災者の聞き取りを重ねていくと、原発事故がなければ失われなかった暮らしや仕事などが次々と浮かび上がってきた。

原発事故が壊したのは、地域の自然環境、経済、文化、そして人々の「一体性」だった。

「地域を引き裂いた」との表現が福島の窮状を言い表していた。

地域での営みこそが「ふるさと」に違いなかった。除本さんは決意した。

 「ふるさとの全面的な回復を目指すべきだ」

 被害に対する賠償では、国の原子力損害賠償紛争審査会(原賠審)が11年8月、損害賠償の基準として中間指針を出していた。

避難などに対する慰謝料は、交通事故の慰謝料に準じて月10万円とされた。

いわば入院で不自由な生活をする代償のような扱い。指針には「ふるさとの喪失」に相当する部分はなかった。

 東電は中間指針の基準に沿って賠償に応じたが、不満を抱えた住民による集団訴訟が相次いだ。

除本さんも「賠償は、ふるさとを追われたことに見合うものではない」と受け止めた。

 「ふるさとの喪失」による被害があることは自明の理だ。

同時に、ハードルを感じたのも確かだった。

「ふるさとがなくなって悲しい」と主張するだけでは、精神的な苦痛だけと受け取られかねないからだ。

 「裁判官らにふるさとの喪失を認めてもらうためには、丁寧に表現していかなければいけない。そして、ふるさとの喪失を賠償という皿にきちんと載せていこう。それは原発のコストを正当に評価することにもつながる」

 除本さんが「ふるさとの喪失」の意味について初めて公の場で発表したのは11年11月にあった福島大での講演だった。

タイトルは「福島原発事故の被害構造に関する一考察」

 その概略は次の通りだ。

被害地域の豊かな自然環境は、農業基盤などとして「経済」とも深く結び付いている。

この基盤は、私有地内だけに存在するのではなく、周囲の自然環境と一体のものである。

ふるさとが持つ価値は「生活と生産のノウハウの複合体」であり、長期にわたり発展し、継承されていくような地域固有の文化、いわば「一種の知的な資産」と言える――。

 それ以降「ふるさとの喪失」との言葉を、学会などで意識的に使うようにした。

この言葉が持つ意味が世の中に浸透し「市民権」を得るように。

 それでも、ふるさとが持つ価値の喪失を金銭で償うのは難しい。

土地の「時価」で代替できる性質の被害ではない。

精神的な苦痛にとどまらない被害が極めて大きく、避難によって不自由な暮らしを余儀なくされたといった程度のものではない。

 研究と発表を続け、裁判で意見書を書いた。

最初に出された中間指針から11年たった22年12月、原賠審はようやく「ふるさとの喪失」に対する賠償の基準を明記した。だが、除本さんは十分だと思えなかった。

調査に数百人協力 裁判に意見書

東京電力福島第1原発事故で失われた「ふるさとの価値」を見いだすことが、被害者の救済につながるはず。

大阪公立大教授の除本理史さん(51)は調査を続けたが、円滑に進んだわけではなかった。

多くの住民は、生活の見通しが立たず、不安な日々を過ごしていたからだ。

話したくないと拒まれるのも当然と、ひたすら頭を下げた。

その姿勢や、公害研究で被害者に寄り添ってきたことを耳にした人もいて、調査には延べ数百人が協力してくれた。心の中では「必ず研究でお返ししたい」と誓った。

 福島を何度も訪れていると「ふるさとの価値」がどのような過程を経て、生み出されていくのかが分かる店と出合った。

福島第1原発から約40キロ離れた高原にある飯舘村唯一のコーヒー店「椏久里(あぐり)」。

除本さんから見て、店主の市沢秀耕さん(69)は「日々の暮らしや風景に価値がある」と気づいている一人だった。

 市沢さんは、村役場を早期退職し、妻の美由紀さん(64)と起業に向けて準備を進めた。

富山県を訪れて水田近くに建つ、評判の喫茶店を視察したほか、東京都内の老舗で焙煎(ばいせん)技術を学んだ。

店舗は、美由紀さんが村の研修で訪れたドイツの農家をイメージし、木造で大きな窓にした。

店名は英語のアグリカルチャー(農業)から取り、1992年に開業した。

 店を開いた当初は「すぐに潰れるのでは」とうわさされた。

ところが本格的なコーヒーに加え、大きな窓からは、季節ごとに移ろう山の色や、自家農園での作業風景が楽しめた。

いつしか人気が高まり県外からの客も訪れるようになった。

農園で栽培したブルーベリーはジャムやケーキの材料にし、増産も計画した。

 だが、原発事故によって閉店に追い込まれた。

「夢を描き、出来上がりかけていたキャンバスが突然、切り裂かれた」。市沢さんは嘆いた。

 ふるさとを奪われたのは、同居する家族だけではなかった。

江戸後期に福島に入植した6代目に当たる。

おじ、おば、兄弟は正月や盆に帰郷していた。

「コーヒー店は家業の農業、農地を維持して、次の世代に継承する手段だった。また、親類は帰る場所がなくなったのに、なんの償いもない」。市沢さんはそう話した後、言葉を詰まらせた。

 双葉町では養蜂に取り組んでいた男性と知り合った。

35歳で東京からUターンし、2年間の農業研修を受けた後、耕作放棄地を開墾し、養蜂場と畑をつくっていた。

蜂蜜は東京のデパートでも売り出されるまでになったが、原発事故で避難を強いられた。

「息子2人に事業を残したかった、掛け替えのない財産を失った」。

そのような話を聞き取る度に、土地に根付いた生活の重さに気付かされた。

 全村避難となった川内村では、若い民俗学者がキノコ採りについて聞き取り調査をしていた。

キノコは食べ物としての価値だけではなかった。

自分だけの秘密の場所で採取することを「生きがい」として楽しみ、知人らに分けて交流する世界があった。

 しかし、避難指示が解除されて帰村した後も、山林は放射性物質の除染が進まない。

採取しても人には分けにくい。

山での恵みと楽しみを失ったのだが、補償を請求しづらい現実があった。

除本さんはこの民俗学者とも懇意となり「金銭には表れない豊かさが失われた事例」として研究に取り込んだ。

 被災者の多くは「お金じゃないんだ」「生活が元通りになれば何もいらない」などと胸の内を明らかにした。

言葉は違っても、それらは「ふるさとを返してくれ」という住民たちの叫びだった。

除本さんは「全面回復が無理なら、失ったものの大きさを東電や国に認識させ、支援する政策、制度を作らせることが大切になる」と損害認定の意味を考えるようになった。

 一方、東電は損害賠償訴訟で「ふるさとの喪失」の損害を否定し続けた。

これに対し、除本さんは調査した事実や情報に基づき、法律家や学者と連携して「ふるさとを失ったことは実害である」という論理を組み立てていった。

 2017年9月の千葉地裁での判決を皮切りに「ふるさとの喪失」の損害を実質的に認める判決が出ていたが、除本さんが「前進した」と受け止める判決がようやく出た。

 20年3月12日、除本さんは仙台高裁の法廷にいた。

判決で小林久起裁判長は「故郷の喪失や変容による損害、精神的苦痛があった」と東電に賠償の増額を命じた。

「避難に伴う苦痛」とは別に「故郷の喪失や変容」による被害が独立して計算されたのだ。判決は最高裁で確定した。

 判例を踏まえ、原子力損害賠償紛争審査会が22年12月、賠償の基準「中間指針」を変更し「故郷の喪失や変容による損害」を初めて明記した。

その基準は居住制限区域と避難指示解除準備区域の住民に250万円、緊急時避難準備区域は50万円とされた。

 除本さんは満足しているわけではない。

「ふるさとを喪失したことへの賠償は、住民側の請求に比べ桁違いに低い。また、帰還困難区域は既に賠償済みと扱われ、問題がある」。

それでも「ふるさとの喪失の深刻さを裁判所が認めた」と受け止めた。

福島の復興に必要なこと

なぜ公害を研究しているのか。

動機の原風景にあるのは、横浜市金沢区の自宅近くに広がっていた海岸だ。

家族と潮干狩りをして、採れたアサリなどをみそ汁に入れたり、バター焼きにしたりして食べた記憶がある。

ところが海岸は「海の公園」の整備として人工的に手が加えられ、アサリなどは激減してしまった。

「何のための開発だろう」。その疑問が進路に影響した。

 早稲田大を経て一橋大大学院に進み、経済学の視点で公害を研究した。

公害問題は環境、健康、法律など多岐の分野にまたがる。

そこで研究者、弁護士、医師らが集う研究グループ「日本環境会議」に参加した。

この会議では、川崎公害の地(川崎市)で「環境再生のまちづくり」の取り組みが進められ、市民向けに「水辺環境の再生」などのテーマで連続講座を企画した。

多分野が協力する環境会議は活動の大きな足場になった。

 福島での活動のほかにコンビナートによる大気汚染公害があった岡山県倉敷市水島地区を研究している。

みずしま資料交流館が22年10月にオープンするなど、公害経験の継承が進められているエリアだ。

 注目するのは、公害による呼吸器疾患を治療してきた医師や理学療法士らの動きだ。

公害認定患者だけでなく、医療関連のイベントなどを通して呼吸器疾患患者も把握し、健康な地域へと飛躍させようとしている。

 大阪公立大で除本さんが指導するゼミ生たちは22年9月に水島で合宿した。

企業OBや公害訴訟とは距離のあった住民らから地域の歴史や経験を聞き取った。

それを元に、環境学習ツアー用の観光案内看板を制作した。

「まちの再生には、さまざまな立場の人の協働が不可欠になる。多様な視点を認めたコミュニケーションが大切だ」。研究で導いた結論だ。

 では、福島の復興に必要なことは何か。

土台となるのは「水島などのように加害者側が責任を認め、関係性が組み替えられること」とみる。

その中で「地域の価値が見直されるべきだ」と提言する。

 福島には「外来型開発」として原発が立地していった。

その開発の在り方を転換し、地元の企業、住民、団体などが主体となって「ふるさと」の「根っこ」である自然、文化、地域産業などを生かした「内発的発展」へ向かうことが大切だと考えている。

 ヒントは、震災前に大量生産、大量消費を見直し「スローライフ」に価値を見いだした飯舘村の取り組みにあると思っている。

被災後も女性たちを中心に、寒冷地の保存食や山菜などを生かす「村の食文化」を継承しようと、農作物を加工、販売する動きがあった。

「そうした芽を将来へつないでいけないか」。

ふるさとを奪われた人たちが再生に挑む姿を除本さんはこれからも見守り、共に歩んでいく。

タイトルとURLをコピーしました