本書は歴史の「語り直し」、オフィシャル・ストーリーを民衆の立場から書き換える壮大な試みである
新自由主義の「暴力」を告発する
『図書新聞』3042 号、2011 年 12 月 17 日に、社会学者の渋谷望氏が 2 面にわたり、『ショック・ドクトリン』を解説しているので抜粋して紹介する。
本書の最大の特徴は新自由主義「御用学者」がこの 30 数年のあいだ、世界の民衆に対して行使してきた「暴力」を掘り起こし告発する点にある。
彼女が掘り起こすのは、御用学者が教科書的に何を主張してきたかではなく、実際に何を行ってきたかである。
言説のレベルではなく、実際の行為のレベルの批判である。
クラインが執拗に焦点を当てるのは新自由主義の導師、ミルトン・フリードマンである。
彼女は、フリードマンの考えと行動のなかにこの暴力への要請が書き込まれていることを見出す。
フリードマンのアイデアを初めて実行に移した社会、チリとフリードマンの関係の記述が、大きな比重を占める。
これが、序章、終章を含め全 23 章中の出だしの 5 分の 1 ほどである。
その後の世界を津波のように巡るこの暴力の軌跡を追いかける。
イギリス(サッチャー)、80 年代のアルゼンチン、「移行期」のポーランド、天安門事件の中国、アパルトヘイト後の南アフリカ、エリツィンのロシア、97 年のアジア「危機」。
さらに地球を周回したこの暴力は、2000 年代になってブッシュ(息子)政権のときに、ついに米国自身のもとに帰っていき、米国民に襲いかかる。
それは対テロ戦争を通じ米国市民全体に、ハリケーン・カトリーナを通じて、その被災者に襲いかかる。
さらにそれはイラク戦争を通じてイラクの民衆にも襲いかかる。
本書は近過去の歴史の「語り直し」である。
それは新自由主義の視点から語られたオフィシャル・ストーリーを民衆の立場から書き換える壮大な試みである。
クラインは、軍事的暴力と新自由主義の両立は偶然ではなく必然的なものだという。
なぜなら新自由主義を実行に移すには民衆の連帯という具体的な障害を破壊する必要があり、そのために暴力が必要だからである。
そしてチリではこの暴力は軍事政権によるテロというかたちをとったのである。
この暴力により、人々は「ショック」を受ける。
人々は茫然自失となり、民衆の抵抗は限りなく小さくなる。
人々はこのときいわば「白紙状態」となる。
この間に新自由主義の「改革」が一気に進められるのである。
ところでこの暴力は必ずしも物理的なものである必要はない。
人々に心理的ショックを与えるものであれば何でも構わない。
クラインは様々な惨事/災害は「ショック」を引き起こすという。
それは津波やハリケーンのような自然災害、戦争のような人為的惨事、インフレのような経済的惨事についてもあてはまるという。
そしてフリードマンをはじめとするエコノミストたちは、この惨事/災害によるショックを意識的かつ効果的に利用し、これにつけこみ、人々にショックを与え(あるいはそのショックを増殖し)、彼らの連帯を破壊し、新自由主義を導入してきたのだという。
ショック・ドクトリン
堤未果さんによる『100分de名著』から、ナオミ・クライン著 『ショック・ドクトリン』を、すこし紹介したい。
『ショック・ドクトリン』の原書が、世に出てから 16 年。
この間、世界ではデジタル・テクノロジーが猛スピードで進化し、私たちの日常はますます仮想空間と一体化し、ショック・ドクトリンの手法もまた、よりスピードを上げ、見えにくく、巧妙になってきています。
主権者として社会を作っていくはずの私たちが、このスピードに引きずられ、大量の情報に飲まれたままでいれば、立ち止まる暇もなくつけこまれ、弱い者がまず踏みつけにされるでしょう。
そんな社会を子どもたちに残したくないからこそ、この本を一人でも多くの日本人に読んでもらいたい、、、
起きていることを多角的に、俯瞰して見るスキルを身につけると、目に映る世界が本当に変わります。
少ない情報でも、未来が見えるようになると、主権者としての自分の立ち位置がクリアになっていくのを実感できるでしょう。
危機に便乗して過激な新自由主義を強引にねじ込むこの戦略を、クラインは「ショック・ドクトリン」と名づけます。
そしてそこから過去に遡り、フリードマンとその一派がこの手法を使って、いかに世界の多くの場所で、国家や国民の資産を略奪してきたか、事実を丹念に拾い上げながら、語られなかった〝もう一つの歴史〟を明るみに出したのでした。
ドミニコ会やイエズス会は、主として当時のアメリカ大陸でネイティブ・アメリカンの権利を主張し、奴隷制に抗議していたからである。
イエズス会員はキリスト教徒になったインディオを他部族やヨーロッパの奴隷商人の襲撃から守るためブラジルとパラグアイに「保護統治地」をつくった。
インディオを保護しようとするイエズス会員はスペインとポルトガルの奴隷商人およびそこから利権を得る政府高官にとって目障りであったため、のちにポルトガルからイエズス会への迫害が始まることになる、、、
16世紀のブラジルでインディオ相手に宣教・教育事業を行いながら、いくつもの街をつくった。
その中にはサンパウロ、リオデジャネイロなどのちに大都市になったものも含まれている、、、
宣教地で働くイエズス会員たちはその土地の文化や言語の学術的研究をすすめ、ヨーロッパに紹介した。
たとえば1603年に発行された日葡辞書は非常に画期的かつ浩瀚な内容で、現代においても17世紀の日本語の貴重な研究資料になっている、、、
ヨーロッパ諸国がナショナリズムを強め、王権のもとに国をまとめていこうとしたとき、国境を越えて自由に活躍し、教皇への忠誠を誓うイエズス会の存在が目障りなものとなっていた、、、
このような経緯を経て1773年7月、クレメンス14世は回勅『ドミヌス・アク・レデンプトール
(Dominus ac Redemptor)』を発してイエズス会を禁止した。
「生産性の論理を土地と農業に適用したことは、人類の歴史に根本的な変化をもたらした。
人々の生活が『生産性を高め、生産量を最大化する』という欲求に支配されるようになったのだ。
生産は、もはや必要を満たすものでも、地域の充足を目的とするものでもなくなった。
利益を中心に計画され、資本家の利益を増やすためのものになっていたのだ。
これはきわめて重要なポイントだ。
わたしたちが人間の本性に刻み込まれていると思っていた『ホモ・エコノミクス』の性質は、囲い込みによって導入されたのだ」
「競争を強いるこの体制は生産性を劇的に高めた。1500年から1900年までの間に、1エーカーの土地から獲れる穀物の量は4倍になった。当時、向上(インプルーヴメント)と呼ばれたこの成果のゆえに、囲い込みは正当化された。
イギリスの下級地主で哲学者のジョン・ロックは、囲い込みが平民からコモンズを盗む行為であったことを認めながらも、『この盗みは集約産業への移行を可能にし、農業生産を高めたので、道徳的に正当化される』と論じた。
『総生産高を増やすことはすべて人類の向上というより大きな善への貢献だ』と彼は述べた。
同じ論理は植民地化を正当化するためにも使われ、ロック自身、この論理を後ろ盾にして植民地政策を擁護した。『向上』は強奪に言い訳になったのだ。
現在、同じ言い訳が、新たな囲い込みと植民地化を正当化するために日常的に使われている。
今回、囲い込みと植民地化の対象になっているのは土地、森林、漁場、大気などである。
もっとも、わたしたちはその成果を『向上』ではなく、『開発』あるいは『成長』と呼ぶ。
GDPの成長に貢献するものは事実上すべて正当化される」
「ここで理解しておくべき重要なポイントは、資本主義の特徴であるきわめて高い生産能力は、人為的希少性の創出と維持に依存していたことだ。
希少性―および、飢餓の脅威―は、資本主義を成長させる原動力になった。
実際には資源は不足していなかったので、その希少性は人為的なものだった。
土地、森、水源は以前と同じだったが、突如として、利用を制限されたのだ。
希少性は、上流階級が富を蓄積するためにつくり出したものだった。
人為的希少性は国によって暴力的に強制され、勇気を奮って自分たちと土地を隔てる柵を壊そうとした農民は虐殺された」
ジェイソン・ヒッケル「資本主義の次に来る世界」(東洋経済新報社、2023年5月)