ショック・ドクトリン


「ショック・ドクトリン」とはテロや大災害など、恐怖で国民が思考停止している最中に為政者や巨大資本が、どさくさ紛れに過激な政策を推し進める悪魔の手法のことである。日本でも大地震やコロナ禍という惨事の裏で、知らない間に個人情報や資産が奪われようとしている。パンデミックで空前の利益を得る製薬企業の手口、マイナンバーカード普及の先にある政府の思惑など……。強欲資本主義の巧妙な正体を見抜き、私たちの生命・財産を守る方法とは? 滅びゆく日本の実態を看破する覚悟の一冊。

「堤未果のショック・ドクトリン」 政府のやりたい放題から身を守る方法 (幻冬舎新書 690)


「教養」の深浅は、自分の「立ち位置」を知るときに、どれくらい「大きな地図帳」を想 像できるかによって計測される。 「教養のない人」というのは、「自分が何者で、どこに位置しており、どこへ向かって進んでいるか」を考えるときに、住んでいるマンションの間取り図のようなものしか思いつ かない人のことである。「教養がある人」というのは、世界史地図のような分厚い本を思 い浮かべて、そのどのあたりの時代のどのあたりの地域に「自分」を位置づけたらいいん だろう(中略)と考えられる人のことである。

(内田樹『子どもは判ってくれない』)



「教養」はそれとは違う。「教養」のある人はトリヴィア・クイズにも強いので 「雑学」者と混同されるけれど、両者はまったく別のものだ。教養は情報ではない。教養とはかたちのある情報単位の集積のことではなく、カテゴリーもクラスも重要度もまったく異にする情報単位のあいだの関係性を発見する力である。雑学は「すでに知っていること」を取り出すことしかできない。教養とは「まだ知らないこと」へフライングする能力のことである。

(内田樹『知に働けば蔵が建つ』)


自分を相対化できない、というのは どういうことかを考えてみる。ようするにこれは、自分がすべての判断の基準になるということだ。何事も、自分が好きか嫌いか、自分が理 解できるかできないかで決める。こういう人は「生理的にダメ」とかすぐ言う。めちゃくちゃ 頭の悪い表現だ。自分の好みが果たして正当な ものかどうか、より大きな尺度に沿って吟味す ることができないからそうなる。でもそういう 人に限って、「私は自分の判断基準をしっかり持っている」と思い込んでいるから余計に始末が悪い。

教養ある人は違う。自分が特別だとは思っていないし、自分を超えた人類の知的遺産によっ て自分の幸せと生存が可能になっているということを知っている。何より、この世には自分を 超えた価値の尺度があるということがわかっている。だから、教養ある人は決してみんなも自 分と同じものが好きなはずだと決めてかからない。かといって逆に「人好き好きだよね」とい って判断停止することもない。自分の好みを自分を超えた価値に照らして評価し、好みじゃな いものを選択することができる。


ディベート(討論) とダイアローグ(対話)

ディベートは、ある論題について、一方が賛成、他方が反 対の立場をとって議論しあい、説得力ある論証を展開できた方が勝ちになる。ディベートでは 考えを変えると負けだ。
でも、ダイアローグでは、やる前と後とで自分の考えが変わらなかっ たら、やった意味がない。変われなかったら「負け」なのである。

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